「きかんしゃトーマス」で考える「働く」と「人事」
(2019年8月にFacebookへ投稿した内容を、加筆/修正したうえで再掲しています)
いま5才の息子は、サンタさんからもらったアースグランナーティラノトプスに夢中。一日中、変形と合体を繰り返している。正確に言うと、絆合体。
いまはアースグランナーだけど、数年前のそのポジションは、きかんしゃトーマスだった。自分が子供の頃は見てなかったトーマスだけど、一緒になってよく見てた。
自分らしさをもった存在として社会に参加する
そのときぼんやり感じていた印象をうまく説明してくれてるこの記事。「自分らしさの発見」と「社会への参加」の両立。こういうテーマは、見ていた当時たしかに強く感じていた。
話の中で取り上げられる主題は、その回で中心を担うキャラクターの特性と密接に関係していることが分かる。「パーシーはパーシー」(第14シリーズ)という話の中では、“ゴードンのようになりたい”と思うあまり「いつも通りの自分で良いということ」を前向きに捉えられなかったパーシーが、トップハム・ハット卿からの言葉で自分の良さを再認識でき、自分らしくありたいと思え、自分を保つことができるよう成長していく姿が描かれている。
このように、ゴードンやトップハム・ハット卿との関わりによって自身の在り方を考え直すパーシーの姿からは、単に周囲に溶け込み、同化していくという個の在り方ではなく、自分らしさをもった存在として社会に参加し、関わり合っていくことの大切さも示唆されている。
『学術的に証明!「きかんしゃトーマス」は幼児教育の優れたパートナー』より
きかんしゃトーマスで印象的なシーンが、トップハム・ハット卿から割り当てられる仕事に対して、登場機関車たちが心理的/社会的に優劣をつけるところ。「憧れの仕事」「なんで俺様がこんな仕事を」なんて言葉が出てくる。これがすごく人間臭さを感じさせる。自分の職業柄かもしれないが。
彼らにとって仕事というのは、無味乾燥な役務ではなく、「自分らしさの発見」や「社会への参加」につながる、世界とのへその緒なんだろう。
働くことに対する価値観の多様化
「私もそう思う」という人もいれば、「いやいや、仕事というのはさー」と異論のある人もいると思う。そんなバリエーションのひとつとして、就活生の仕事観を想像で書いてみたりもした。
有り体に言えば、「働くことに対する価値観の多様化」ということなんだろう。もうちょっと自分に引き寄せて考えると、私の場合は、「人事として『働く自分』」と「人事として、社員に『働いてもらう自分』」という二人の自分が、まぜこぜになる感覚とでも言おうか。
「働く自分」として考えることは、昔も今も変わらない。「私にとって、仕事とはなんだろう?」という、終わらない(そして、終わらせる必要はない)問い。多様化する「働くことに対する価値観」のなかから、自分にとっての価値観を見出したり選び出したりする道程。
そして、「働くことに対する価値観の多様化」という文脈において新しく登場するのが、「働いてもらう自分」という、もうひとりの自分。「多様化する価値観」を、組織として包摂することの大切さと難しさ。そもそも「ひとつ」に包摂することが解なんだろうか?という問いも、頭をもたげる。「ひとつ」に包摂しないのであれば、そのとき組織の原子性はどうなるのだろう?
就活生が口にする「自由に働きたい」という言葉には、個人と組織の間に横たわる、スープの冷めない距離への希求が含まれているのかなと、今は感じています。
『「自由に働きたい」と話す就活生が見ている世界』より
「ジョブ型がー」とか「ひとりのプロフェッショナルとしてー」のような制度論や精神論にしないで、「働く自分」と「働いてもらう自分」の両面から、個人と組織の間のスープの冷めない距離を、(自分を含めた)人間の顔をちゃんと見ながら、探っていこうと思う。