ドストエフスキー「白痴」

本に何を求めるかというと、自分の生活からかけ離れた世界の描写ではなく、自分の考えを首肯してくれる陳述でもない。前者は、かけ離れた世界はこのようであると言われても、実感がわかないため、単に一泊二日で観光をして大して記憶にも残らないといった、貧しい経験しかできない。一方後者は、そもそもベストセラーとかの大半の本は、その肝となる部分を表紙やタイトルや帯で前ばらしされているため、新鮮な驚きを持ってその本を手にするということが少ない。むしろ古本屋で何の一貫性もなく並んでいる書籍群を探索するほうが楽しいこともあるかもしれん。
そこで、私が本に求めるのは、考え方のコペルニクス的転回をもたらすようなものとか、あるいは過去に読んで印象を受けたけれども現在の自分ならどう感じるだろうかと興味があるものである。やはり自分の持つ常識とか日頃の些事とかをひっくり返すような新しい発見をしたいとはいつも思っている。そういう新しい書物の情報は、どっかから流れてくるものだろうけれど、大書店にはなかなか行けず手頃な中小書店で間に合わせざるを得ないので、いつ行っても変わり映えのない売り場、となるのが現状である。
そこで、新しい書物を探すのはとりあえず小休止とするが、そこで目につくのは過去にむさぼり読んだ本たちであり、ドストエフスキーの著作も、よく分からないながらもせめて話の筋だけは頭に入れようと思って読んできた。そして話の筋が分かった上で、今度は細部を楽しもうとしている。それだって、深遠な作品世界であるから、年齢ごとに理解力が高まっていくはずだけれどそれでも追っつかない部分もある。だからドストエフスキーの著作からはいつになっても発見があるのである。

前置きが長くなったが「白痴」ももちろん深みのある書物であり、ムイシュキン公爵、ラゴージン、ナスターシャ・フィリポヴナ、ガーニャ、イヴォルギン将軍、イッポリート、といった面白い人物たちが登場する。こういう本を読む時、私が別途何か創作をしているにしても、作家の心理を解剖するとか、そういう読み方はできない。ドストエフスキーに関しては特にそれが不可能である。彼の小説に登場するのは、帝政ロシアの貴族や民衆の写し絵なのであろう。決して、ストーリーの都合でそれぞれの「キャラクター」が動かされる、といった体のものではない。ストーリーはそんなに込み入っていないが、人々が紙の上に立ち上がってひたすらしゃべる、そんな劇を見ているような気分である。
「白痴」の再読はまだ途中なので作品の評価は今度にするが、御案内の通りこの作品は「真実美しい人」を書くという意図に沿って書かれたものであり、作家はそれはドン・キホーテであると言っている。ムイシュキン公爵もまた「真実美しい人」なのかどうか、恐らく世間的に、この人が美しいとは到底思えない、単なる病人だ、という見方が多いだろうと思う。ただ、病人であるといえばドン・キホーテも病人のようであるし(しかも滑稽である)、ムイシュキン公爵は滑稽であるとは私は思わない。
しかし「真実美しい人」を他の創作物で見られるかというと、ちょっと分からない。そもそももっと簡単に読める小説、漫画などでも、読者によっては「このキャラクターは真実美しい」と言明することもあるだろう。まあ私の創作でも、美しい人を描けたらいいなとは思っているところなので、ドン・キホーテやムイシュキン公爵を特に念頭に置かないでも、美しい人柄について考え表現していければと思う。(つづく)

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