「ムスカる」=昔読めなかった本が読める事に歓喜する状態 / 何故「目がぁ〜」なのか?
この造語は、自分が10数年前から使っている造語です。
意味は、ムスカが黒い石を見て「読める!読めるぞ!!」と歓喜する事から、読めなかった本、見えなかった物事が分かる時に使います。(眼鏡を掛け目を大きく見開き、「読める!読めるぞ!!」とセリフを真似するとムスカの気持ちが分かるかも知れません😅)
以前読めずに閉じて店の本棚に戻した本を、買って開いたら読める自分に驚き、目を見開き「読めるぞ!」と成った経験が有ります。
当時読めなかった本を挙げると、「正法眼蔵(誰の著作だったのか?)」と養老孟司「カミとヒトの解剖学」「唯脳論」です、他にも有りますがこの3つが強く印象的です。世の中にはもっと難しい本はありますが、そう言う本は開く前に触れるどころか縁すら有りません。
結局「正法眼蔵」は誰の著作なのか分からないので、今の所読んでませんし読む予定もありません。
「カミとヒトの解剖学」は、読みたい本を何冊か纏めて買った中に有ったのですが、40ページ程読むのに、何度も行きつ戻りつしながら読み進めた挙げ句、草臥れて断念したのを覚えています。
その時は自分にはまだ早いのだなと、諦めて別の本を数冊読み半年程度経った後に、開いて数行読んだ時に「読める!読めるぞ!!」と成った時にムスカを思いだし、これを「ムスカる」と呼ぼう!と思った事を今でも覚えています。それでも読み終わる頃にはヘロヘロでした。
何故「目がぁ〜」なのか?
調べて無いので違うかも知れませんが、それまで神か王を気取っていたのに、途端に情け無くなり所詮は人なのだと言う、落差の演出だと思いますが、何故「目がぁ〜」なのか?子供ながら気になるシーンでした。
この文を書くキッカケに成ったのが、テレビ録画して有ったperfume (ファン歴10年)の最近出た新曲のダンスを見ていたら、初めて見るダンスなのに3人の動きが今迄に無い程観えて、「観える!観えるぞ!!」に成り、ムスカを思い出しました。(母に目が似ていると言われました)
《観=観賞する時と。全体を半ば見つつ内面に映った画と経験感覚を結び付けている時。
見=主に目で注意して視る時に使い分けています。
どちらも重要でよく見た上でないと、感覚や経験と上手く結び付ける事は出来無いと思います。
言葉として使い方が正しいのか分かりませんが、自分は取り敢えず使い分けしています。あくまで自分の中で分ける為です。》
鏡を見なくても似ている事は何となく分かっていたので、嬉しくなり何度か真似している内に、手帳と黒い石を交互に見るムスカが浮かびました。
あの「手帳」は家に細々と伝わる文献(主に口伝?)を自分で纏め上げたムスカの半生そのものなのでは?と、そうなると天空の城が崩壊する時に「ラピュタがぁ〜」 や「一族の夢がぁ〜」と成らずに、自分の「目」が積み重ねて来た人生そのものと言える「手帳(本)」と黒い石を読め無くなった時に「目がぁ〜」が、ムスカにはリアルな絶望だったのでは無いのかと思います。
付け加えると、ムスカは「目」と手(指先)を結び付ける事が得意なので拳銃も上手です、自分もエアガンで4m先に置いたBB弾を、ムスカの様に然程狙いを付けずに3発に1発程度、当てる事を昔は出来ました。(ムスカでは無く冴羽獠を目指したんですけどね、、、)
「読めるぞ!!」の真似をする内に思い付いた事で、30数年ぶりに腑に落ちました、調べればもっとシッカリした解説が有るとは思います。それでも自分成りに、シックリしてスッキリする解釈が出て来ると嬉しいものです。
書き終わった後で思い出して、入れるのを忘れていました。付け足しです。
「天地人」
知性=神、「天」、城、塔によく喩えられる。目は脳の近くに有って目と脳は密接に繋がっている、脳→指→文字→目(文字と視覚情報)→脳を繰り返し論理が構築される。ムスカ。
体や生命=土や「地」によく喩えられる。炭鉱夫やポム爺さん。
「空」から降って来た少女と地から飛び立った少年が、「天」と「地」の間を飛ぶ「人」(空)の物語。