ツイッターと私
私にとって、ツイッターでの文字制限は、最初邪魔でした。
昔のCM風に言えば、長い文章が書けないSNSなんて(クリープを入れないコーヒーなんて:なんと懐かしい)。
ツイッターを始めた当初、ずいぶん増長な文を書いていました。
特に、一文がやたらと長くなるヤツ。
一つの単語を長ーく修飾するみたいな。
しかし、文章を書く訓練としては、とてつもなく効果的と、最近気づきました。
短文の中に、的確に、かつ、複数の意味情報を展開し、読者を引き付ける文章を書くって、すごく大変です。
言葉の色とベクトルを見抜き、一言を上手に多様に利用して、複数のイメージを盛り込む。
考えてみれば、短歌や俳句といった、「短文に、豊かな背景やイメージを盛り込む」という精緻な文学が、有りましたね。
日本には。
そして推敲。
推敲し、文章を可能な限り削り込むことで、文章を磨き上げる。
推敲って、誤字脱字のチェックというより、より、自分の頭の中にある情景を、いかに適切に、且つ、印象深く紡ぎだし、相手に伝える情報量を増やすか、ですよね。
推敲では、句読点の打ち方も気遣います。
句読点の位置によって、文意が多少変化します。
句読点は、多すぎても少なすぎても、問題です。
最初は、多くの言葉で飾ることを考えていましたが、過剰で重複した部分を削り、言葉の持つ色とベクトルを、文脈と兼ね合いを見てバランスさせることが重要だと気付きました。
よりイメージが伝わりやすく、インパクトを与える文が、私の理想です。
これがうまくできた時、とても甘美な喜びの感覚を得られます。
だから、最近は昔とは逆に、短くて、いかにエスプリが効いた、内容ある文章を書くかに傾注しています。
そして、ツールとしての使い方が変化しました。
自己主張はnoteで。
時節の話題はツイッターで。
やはり、自己主張は、どうしても長文になります。
短くして相手に誤解を与えても、面白くありませんし。
時節の話題は、共有されている情報がある前提で書くため、短くても誤解が少ないです。
つらつら書いてみましたが、SNSは、情報を「発信するツール」として、パラダイムシフトを与えるものです。
形を変えたマスメディアになりうる存在ということです。
そこに、組織であれ個人であれ、簡単に参加できるようになった。
個人が、「ジャーナリスト」を名乗れるようになった訳です。