呪いではなく祝福を
日本には沢山の神社仏閣があり、八百万の神々が祀られている。
神々の位が高くなるほど、敷地は広くなり、建物は大きくなり、装飾は豪華で華麗なものとなる。
それらは山の麓や丘の上、海辺や湖畔に築かれ、自然の中に溶け込み、静寂で荘厳な雰囲気を醸し出している。
そこに来ると、神秘的な空気に包まれ、どこか心が洗われるような気持ちになる。
一般的に、日本人は神社仏閣、あるいはあの空気が好きだと思う。
日本人の心とも言うべきものがそこにあるのかもしれない。
しかし、そこに神は住んでいない。
神はただ1人であり、この世界とその中にあるすべてのものを造られたお方。
神は天地の主であられるのだから、人の手で造られた宮には住まわれない。
また、何か人の助けが必要かのように、人の手によって仕えられる必要もない。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのだから。
また、神の祟りや呪いを恐れて、神の怒りをなだめるために、何か犠牲を捧げる必要もない。神ご自身が、なだめの供え物としてご自分の御子を遣わしてくださったのだから。
実在しない神々を求めて神社仏閣を訪れるのではなく、実在する真の神を求めてその場で祈る。
そうすれば、神は出会ってくださる。
神は力があり、正しく、善いお方。このお方のうちに、暗いところは1つもなく、罪に汚れた私たちが近づくことなど許されない。
しかし、今は近づける。
御子がなだめの供え物となり、私たちが受けるべき怒りと呪いを代わりに受けてくださったから。
もう神のさばきを恐れる必要はない。御子による贖罪を信じて受け入れるなら、あなたの罪は赦される。
神はあなたに注がれる。
呪いの代わりに祝福を。
神はあなたを満たされる。
恐れの代わりに平安を。
神は愛。
十字架に愛がある。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥め(なだめ)のささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネの手紙第一)