東京にある明治神宮外苑の再開発によって、多くの木々が犠牲になる。木々が犠牲になれば、生態系が破壊されて、虫や動物たちが犠牲になる。ラジオを聴いてそう知ったとき、悲しや憤りがこみ上げてきた。 坂本龍一さんも、再開発の見直しを求める手紙をニューヨークから出していたそうだ。「一度失ったら二度と取り戻せない」。すぐに開発をやめてほしい。動物や植物たちのために。 街の景観を守るために、建物は15メートル以下でないといけないというルールがあったけれど、いつの間にか規制はなくなり、18
「イエスは彼らに言われた。『あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか。それとも滅ぼすことですか。』」(ルカの福音書6:9) 当時のユダヤ社会には、安息日規定というものがあった。ユダヤ人にとって土曜日は安息日と呼ばれ、その日にはいかなる仕事もしてはいけないという細かな規定が定められていた。だから、指導者たちは、イエスの弟子たちがお腹を空かせて麦畑の穂を摘んで食べているのを見て、非難の声を浴び
目をつむり、耳を澄ませて、鳥の鳴き声を聴く。鳥は何匹いるのか。何種類の鳥がいるのか。互いに語り合っているのか。一人で鳴いているのか。 屋根から雨がつたって、足元の水溜まりに、水滴がぽとぽと落ちてくる。一滴ごとに、小さな水しぶきが起こるが、どれも違う弾き方をしている。だから、見ていて飽きることがない。 一人あそびだが、孤独ではない。私は、こうして、神の御手のわざを楽しみ、神と親しく交わっている。
ベンチに座っていた男子二人の前を通りかかったとき、一人がため息混じりにつぶやいた。 「人間てほんと強欲だよな」 この言葉が頭に刻まれた。 そもそも、人は強欲なのか。 強欲は悪いのか。 強欲は治るのか。 このことについて、聖書が教えていることを書かせていただきたい。 ①人はそもそも強欲なのか 人は神によって、「神のかたち」に造られた。 それは、神に似た性質をもって、神が造られた他の生き物を治めるためだった。 また、人は神の命令を守り、互いに愛し合い、助け合っ
愛とは、心を向けることだと思った。 私の心は、いつとあなたから反れて、他のものに向かう習性がある。 でも、そこでぐっとこらえて、あなたから心を離さない。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 イエスさまの声に聞き従って
聖書は、この世界は罪について誤った理解をしている、と書かれている。 「罪」という言葉を小説や漫画の中でたまに見かける。日常の中で、使う人も少なからずいると思う。 罪の意味を辞書で調べると、 ・法に触れること ・良心のとがめを受ける行い ・人がしてはならないこと と説明されている。 しかし、この説明には肝心な部分が抜けている。 それは、神の存在。 神に反することすべてが罪であり、実のところ「神の存在を抜きにする」ことこそが罪の本質だ。 神を神としてあがめず、
コロナ禍の中で、死をより身近に感じる人が増えた。 人は死を恐れる。 でも、なぜ死を恐れるのだろうかと、ふと疑問に思い、考えた。 そして思い至った答えは、死そのもよりも死後のことが恐いから、だ。 私は聖書を信じているため、聖書を土台として、人間やこの世界を理解している。 聖書によると、死の恐怖から自由とされている人間は誰ひとりいない。 みなどこかで死を恐れている。 ある人は、死なんて恐くないと言う。だけど、心のどこかに必ず死への恐怖心を持っている。 先ほど、死そ
自分の伝えたいことを一言でビシッと言えたらええのに。 でも、ほんまに伝えたいこと伝えようと思ったら、一言では足りひん。 聖書かて、ほんまに伝えたいことは「希望」で、それを伝えるために分厚い本になってて。 この希望を人に伝えたいんやけど、それは一言では伝わりきらんから、一緒にゆっくり聖書読めたらなあ。。。 だけど、一緒に聖書読もうってなかなか言えへんくて。 世の中には危ない宗教もあるし、聖書とか宗教を利用して人につけこんでくる人たちもいるから、本物が見えにくくなってる
キリスト教のことで、実はあまり知られていないことがある。 それは、クリスチャンにとって、神は父親であるということだ。 神と私は遠く離れた関係ではなく、親子という親密な関係なのだ。 人は、イエス・キリストを信じる信仰を通して、神の子どもとされ、父親としての神の愛を受け取り、父親としての愛のしつけに服しつつ、父親の似姿に少しずつ変わっていく。 どんな状況に導かれたとしても、父親である神がその力強い御腕で私を守ってくれる。どんな試練も困難も、父と子の間を切り裂くことはできな
「愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい」ということばが、聖書に書かれている。 神さまは人を愛している。神さまの愛を受け入れた人は、みんな神さまの子どもになれる。 上の聖書のことばには続きがある。 「また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。」 キリストは神のひとり子だ。神なのに人となって世に降ってこれらた。そして、人間とこの世の罪を赦すための生け贄とし
イエス・キリストは、神の国の福音を宣教した。 「貧しい者は幸いである。神の国はその人たちのものだから。」 この「貧しい者」は、経済的に困窮している人が含まれるが、それだけではない。この世において社会から排斥されている人、虐げられている人、囚われている人などが含まれる。 この世の価値観は弱肉強食。上に立つ者は下にいる者を力で支配し、貧しい人たちから居場所が奪われる。 しかし、神の国の価値観はその真逆だ。貧しい人たちが地を受け継ぎ、慰められ、満たされる。上に立つ者は下にい
日本には沢山の神社仏閣があり、八百万の神々が祀られている。 神々の位が高くなるほど、敷地は広くなり、建物は大きくなり、装飾は豪華で華麗なものとなる。 それらは山の麓や丘の上、海辺や湖畔に築かれ、自然の中に溶け込み、静寂で荘厳な雰囲気を醸し出している。 そこに来ると、神秘的な空気に包まれ、どこか心が洗われるような気持ちになる。 一般的に、日本人は神社仏閣、あるいはあの空気が好きだと思う。 日本人の心とも言うべきものがそこにあるのかもしれない。 しかし、そこに神は住ん
聖書を読んだことがない人でも、アダムという名前と、キリストという名前は知っている(正確には、「キリスト」は名前ではなく、「油注がれた者(つまり、王)」という意味の称号)。 どちらも聖書に出てくる人物だが、この両者の繋がりは知られていない。 アダムは、この天地の創造主なる神が初めに造られた人間である。神は人に被造物を治める責任を与えたが、アダムは神の命令に背いてしまった(善悪の知識の実を食べた)。 キリストは、アダムの子孫として生まれ(私たちを含めてすべての人間が当てはま
アルスラーン伝記を読んでいる。 権力と欲望が渦巻く戦乱の世の中で、アルスラーン王子の人格が希望の光となって輝いている。 当時は奴隷制度が一般的であり、自由人と奴隷という身分が存在し、奴隷は自由人の所有物であり、自由人と同じ権利は認められていなかった。 ところが、アルスラーン王子は、奴隷の1人(エリム)のことを「友」と呼んだ。いやむしろ、「友になってほしい」と自ら願った。 その奴隷の印象的なことばがある。「あの方といると、自分の身分を忘れてしまう」。 私はこのことばに
人は自由な意思を持っている。 だからこそ、人の集まりは自由だ。 けれど、みんなが自由に自分が良いと思うことをしたら、その集まりはバラバラになってしまう。 だから、指導者を立てて、ルールをつくる。 だけど、その指導者やルールに納得できない人たちが出てくる。 すると、反対や分裂が起きていく。 だから、指導者はそうさせないために、権威や暴力を用いて人を服従させる。 それが強まっていくと、人の自由は抑圧されて、不自由で硬直した集まりになってしまう。 教会は、建物ではな
アメリカの福音派教会は悪い意味で注目を浴びている。 多くの人たちが福音派のことを、以下のような危険な宗教だと見ている。 ・貧富の格差を助長している ・人種差別を助長している ・環境破壊を助長している ・中東の争いを助長している 確かにそうなのだとしたら、 一体なにやってるんだ! イエスさまはそんなことのために、私たちを召してくださったんじゃない。 イエスさまは、平和を宣べ伝えてくれた ほんとの平和だ。 イエスさまの愛と十字架によってもたらされる平和。