バイオ系明細書に出てくる"in need thereof"をどう訳すか
バイオ系の明細書で必ずとっていいほど出てくる表現に、"in need thereof"があります。
具体的には、以下のような文章でです。
A method for treating a disease, the method comprising administering to a subject in need thereof a composition comprising a novel oligonucleotide.
(試訳:疾患の処置方法であって、前記方法は、in need thereofの対象に、新規のオリゴヌクレオチドを含む組成物を投与することを含む、方法。)
in need thereof、というフレーズでまとめましたが、厳密に言うと、a (the) subject in need thereof、というひとまとまりのフレーズで用いられているのがほとんどだと思います。
上記はクレーム(独立請求項)の例ですが、従属請求項でも、請求項になぞらえた実施形態でも、明細書本文でも、この表現がよく出てきます。「米国出願を見据えたクレームの書き方」みたいなタイトルの、日本の書籍では、「"thereof"は何を指しているかが不明瞭となるから、極力使わないようにする」のようなことが書かれているにもかかわらず、です。
そして、この表現は実際に和訳しようとするときに、少し頭を使わないといけません。当然、「それを必要とする」と訳すのは、明細書内ではまだ許容されるのかもしれませんが、特許請求の範囲でもこのように訳してしまうと、「それ」が何を指すのか分からないので、一連の出願の手続きの中では不利に働くことがあるのではないかと思います。
ですので、「それ」が何を指すのかを明記して訳す必要があるわけですが、他人の翻訳文を見る中で誤解(誤読)が多いと感じるのは、
「方法(method)を必要とする対象」
のように、thereofがa method for treating a disease、を指している訳文です。
が、これは断じて間違っていると考えます。
正しくは、thereofが指しているのは"treating (a disease)"ではないか、と思うのです。
なぜならば、(この1つの請求項の記載だけでは不十分かもしれませんが)このような明細書でクレームされるもの(特許を取りたいもの)は、まさに「(疾患を処置するための)方法」であるわけです。
言葉を補うと、解決したい課題に、「これまでの処置方法(や組成物)では、この疾患を満足いく程度に治癒させることができなかった」という背景があるはずです(色んな英文明細書を読んできましたが、そのような現状の課題が書かれていることがほとんどです)。
即ち、この明細書(上記で例として書いたクレーム)で言いたいことは、「従来の疾患の処置方法では十分な効果が得られなかった対象に、本明細書で開示している新規の方法を行うことで、疾患の治癒又は回復がもたらされるよ」ということのはずです。
ですから、the subject in need thereofが指しているものは、「疾患の処置を必要とする対象」であるはずです。
表記が断片的になってしまっているので、もう一度全体的にまとめてみます。
原文)
A method for treating a disease, the method comprising administering to a subject in need thereof a composition comprising a novel oligonucleotide.
誤訳例)
疾患の処置方法であって、前記方法は、該方法を必要とする対象に、新規のオリゴヌクレオチドを含む組成物を投与することを含む、方法。
(thereofはa method (the method)を指している)
提案訳例1)
疾患の処置方法であって、前記方法は、疾患の処置を必要とする対象に、新規のオリゴヌクレオチドを含む組成物を投与することを含む、方法。
(thereofはtreating a diseaseを指している)
誤訳例を読むと気付くと思いますが、新たな「疾患の処置方法」を、対象が必要としているかどうかは、判断ができないと思うのです。というよりも、従来の方法ではどうにもいかなかったわけですから、subjectが必要としているのは、「新規の処置方法」ではなく、「(解決出来なかった)疾患の治療」であることは自明のように思えます。
私は、特許翻訳者駆け出しの頃は、the subject in need thereofの訳し方に難儀していましたが、あるときに、上記のような考え方を体系的にできるようになってから、この訳に関しては悩まなくなりました。
ただ、上記のように明示することがいいのかどうか分からないので、敢えて単に「必要とする」とだけ訳すのでもいいのかな、とも思っています。
原文)
A method for treating a disease, the method comprising administering to a subject in need thereof a composition comprising a novel oligonucleotide.
提案訳例2)
疾患の処置方法であって、前記方法は、必要とする対象に、新規のオリゴヌクレオチドを含む組成物を投与することを含む、方法。
この提案訳例2の良い点は、1つの明細書の中での訳出を統一することができる、ということです。
例えばですが、上記の例ではthereofが指すのは"treating a disease"だけなので単純で良いのですが、記載によっては、a method for alleviating, decreasing, slowing, and/or preventing a disease, the method comprising administering XXX to a subject in need thereofのように、複数の事象を指す場合が、これまたよくあるのです。
こういう場合に、いちいち「疾患の緩和、低減、遅延、及び/又は予防を必要とする対象に…」のように記載をしていると、表現が冗長になってしまって、少し読みづらいように思えてしまいます。また、これより多くのactionを列挙している場合もあって、そのような場合は訳出も、その後の確認も大変になってしまいます。
そういうわけで、敢えて明記をせずにin need thereofを、単に「必要とする」と訳すのも許容範囲ではないか、と考えています(もちろん、全て明記して訳出するのが好ましいのですが、仮に誤訳になっていた場合に、誤訳訂正の手続きが必要になるので、諸刃の剣ではないかと思います)。
一番いいのは、原文の英語明細書でthereofの使用が減り、代わりに指示対象が明記されることなのでしょうが、それはあまり現実的ではないですから、今回まとめたような思考プロセスと翻訳実務は、もう少し知られてもいいのかなと思います。
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