書物による自己変容の奴隷合宿に行ってきた
「旅館に立てこもって本を読むだけの合宿」に行ってきた。
はじめに
H氏とM氏が「インプット奴隷合宿に行きたい」とSNSでつぶやいていたのを見かけ、調べてみた。『ゆる言語学ラジオ』というポッドキャストのパーソナリティの方が行なっている合宿で、同ポッドキャストの中で紹介されていたことが分かった。平たく言うと「旅館でただ本を読むだけの合宿」である。
私は読書を日課とし、本を愛している。この合宿はとても面白そうだと思った。H氏とM氏に連絡を取り、参加させていただくとともに「インプット奴隷合宿」の実施を取りまとめることとなった。
「旅館でただ本を読むだけ」と言うが、これが分かるようで分からない。頭では理解できても、どのような体験なのか分からないのだ。観光するでもなく、何かを労うでもなく、仕事するでもなく、研修を受けるでもなく、旅館に立てこもってただ本を読むという経験をしたことがないから。
それでいて、合宿のタイトルには「インプット」と書かれている。インプットの奴隷とは果たして何なのか。
そのようなことを自分なりに考えていく中で、今回の合宿名を『書物による自己変容の奴隷合宿』に改めた。
この記事は、四名の奴隷が二泊三日で旅館に立てこもって本を読むだけの合宿レポートである。
内容は以下のとおり構成されている。序章では、『書物による自己変容の奴隷合宿』と名付けた経緯を記している。
第一章では合宿準備の過程を、第二章では合宿に向かう道中を、第三章では合宿初日の様子を、第四章では合宿二日目の様子を、第五章では合宿最終目の様子を伝える。
終章では合宿を振り返り、よかったところや今後の課題について考察する。
また、記事の最後には『書物による自己変容の奴隷合宿』実施のためのチェックリストを記載しておくので、レポートを呼んで興味を持った方がいたらぜひご活用いただければと思う。
一人でも多くの方が、このような合宿に興味を持ち、読書を愛する人が増えることを願っている。
序章 書物による自己変容の奴隷合宿
「私」がインプットし、「私」がアウトプットする。
ワニの生態についてYouTubeに投稿するために、ワニに関する本や論文を読む。
分かりやすく整理して提案するために、ロジカルシンキングについての本を読む、セミナーに参加する。
I(Information)→ M(Myself)→ O(Outcome)
情報に触れるとき、私たち(特にビジネスパーソン)は上のようなイメージを抱きがちだ。
左側の矢印がインプットであり、右側の矢印がアウトプットである。「私」は情報をインプットし、成果物をアウトプットする。
私たちは、そのようにして「知的労働」を行なっている。
「私がインプットし、私がアウトプットする」と言うとき、当たり前のように私という存在が冷蔵庫や洗濯機のような個体として想定されている。原料→ 工場→ 製品の流れと同じで、私を「工場」と見なしているのだ。
仕事における知的生産工場としての私は、まさにその通りに、私工場が原料となる情報をインプットし、私工場が製品のように完成された成果物をアウトプットする。できているか否かは別として、知的労働者は少なくとも雇用主から私工場としての働きを求められる。
そのような社会に生きている以上、そのような社会が変わらないかぎりにおいて、そのような私工場的感覚を持って挙動することを否定するつもりはない。むしろ、そういう構造の中で、そういう振る舞いをすることは合理的というものである。そういう構造の中で、そういう振る舞いをする私がいる現実を確認したまでだ。
奴隷
ここで「インプット奴隷合宿」というネーミングについて考えてみたい。このネーミングに至ったであろう背景をいくつか想像してみる。
A 私工場に原料をインプットするための合宿だから
B 本を読むことを、シンプルにインプットという言葉で認識しているから
C 色々思うところはあるが、言葉がキャッチーだったから
これらのどれかなのかは分からないし、どれでもないかもしれない(どこかでインプット奴隷合宿について詳細に語られてあるのかもしれないが、把握できておらず申し訳ない)。ちなみに、どれでも構わない。批判したいわけではないから。
ただ、私自身にとって「インプット」という言葉の解像度を上げなければ、面白がって「インプット奴隷合宿」などと言えない感じがする。
現代の日本に生きる私たちには「人権」がある。合宿の間だけとはいえ、市民として与えられた権利を放棄するのであるから、一体何の奴隷になっているのかぐらいは把握しておかなければならないと思った。
今回は「インプットの奴隷」になるわけだから、「インプット」という言葉の意味を自分なりに咀嚼しないと、よく分からないものの奴隷になってしまう。
パルプンテ
そのようなことを考えていたとき、ちょうど合宿参加者のM氏がポッドキャストで「インプット」という言葉についての見解を述べていた。
私がインプットし、私がアウトプットする。
I→ M→ O
という図式は厳密には成り立たず、情報に触れたとき私はすでに私ではなくなっている。情報に触れる前の私と、情報に触れた後の私は変容している、とのことだった。
この説明が私にはしっくりきた。
図式化すると以下の通りである。
I→ M→ M'
左側の矢印はインプットであるが、右側の矢印は「変化」である。情報に触れた私は、私'に変容したということである。
私たちの本質は、インプットしアウトプットする機械のようなものとはほど遠い。少なくとも洗濯する前の洗濯機と、洗濯した後の洗濯機よりは変容しているはずである。
私を「私工場」と見なさなかった場合におけるアウトプットは、以下のようになるだろう。
I→ M→ M'→ ?
上記を文章化するとこうなる。
「私が情報に触れることで、私は情報に触れる前の私ではなくなるため、情報に触れた後の私が何をアウトプットするかは、情報に触れる前の私には分からない」
一言でいうと、
「パルプンテ」
である。
※パルプンテはドラクエの攻撃呪文のひとつ。使用するまで、何が起こるかは分からない
私工場
世の中の知的労働者であるみなさんは、私工場として、
I→ M→ O
を求められることは先に見てきた。
しかし、実際のところは、
I→ M→ M'→ O
ということをやっているのだ。電子レンジのようにボタンを押すだけで安定した成果が出せるわけでないのは、こうした事情によるところが大きい。
成果Oをあらかじめ明確にし、逆算し、適切な情報Iを見極め、自己変容後の自分M'を想定し、想定内に抑えることで、惑わされることなく成果につながるアウトプットが出せる。
よく考え、「成果O」に関連しないすべての無駄を削ぎ落とした工場こそが私工場としては優秀とされるのだ。
私工場の「処理能力」の個人差はせいぜい2〜3倍が限界だとしても、こうした思考力の差は10000倍以上あると言っても過言ではない。
だから何だっていうんだ。
知的生産私工場のイメージに閉じないために
私たちは機械ではないにもかかわらず、この社会の構造上、知的生産のための私工場として、機械的に振る舞っている側面があるに過ぎない。
多くの場合において、人々が「インプット」と言うとき、そのニュアンスは私工場としてのI→ M→ Oではないかと私は思う(肌感覚でしかないので「思う」としか言えない)。
一方で、文学少年が小説を読むときに、決して「インプット」とは言わなさそうであることも想像に難くない。
「インプット」という言葉はどこかI→ M→ Oを想起させ、I→ M→ M'→ ?的な情報接触者の肩身が狭くなるのではないか。「旅館で本を読むだけの集まり」を「私工場の生産性の向上」の意味に閉じることはもったいないと思った。
確かに、私たちは「インプット奴隷合宿」を真似して本を読むだけの合宿に行くのであるが、名前をそのまま拝借することを避けるべきだと判断した。
そして、「書物による自己変容の奴隷合宿」と名付けたのである(私が勝手に)。
こうなると、逆にI→ M→ M'→ ?の色が濃く、I→ M→ Oの色が薄まったようにも感じる。しかしながら、私はこのほうが好みだ。
現代人はすっかり機械になり下がってしまっているから、I→ M→ M'→ ?の感覚をもっと取り戻したほうがよいのではないだろうか。
ゆる言語学ラジオさんの「インプット奴隷合宿」への敬意を込め、「奴隷合宿」の部分を残しつつも、私が思うこの合宿における「インプット」の意味合いを明確にした(つもりである)。
今回の参加者にも「書物による自己変容の奴隷合宿」として案内し、案内資料にも明確に記載した。
実際には他の参加者はネーミングなど気にしていない様子だったし、何ならH氏とD氏は合宿の最後の最後まで「インプット奴隷合宿」と呼んでいたし、終わった今もなおその認識であるだろうと思う。
あくまで私の自己満足であり、自己満足させていただけてよかった。浸透していないのは残念であるが、私の勝手なアイデアなので、今のところそれで構わない。
「書物による自己変容」のためであれば、喜んで奴隷になろうではないか。
第一章 奴隷合宿前夜
ゆる言語学ラジオさんのおかげで、実施イメージは何となく共有できていた。実施にあたっては、最初にM氏と二人でZoomで簡単に打合せをしたのみである。その後の段取りはすべてLINEグループ内で行われた。
合宿のしおりをGoogleドキュメントで作成し、決定したことを随時記入した。議論が空中分解してしまわないように、各担当者と決定権者をあらかじめ決めておいた。
具体的には、全体のディレクションを私が担当し、旅館の案出しはM氏に、決定権はすべてH氏にお願いした。D氏は「何でもやるので言ってください!」と言ってくれたので「ありがとう」とだけ伝えておいた。
宿は、大分県別府市 鉄輪の旅館の四人部屋の和室に決定した。
相部屋のほうが合宿感がありそうだったのと、読書と和室の相性もよさそう(文豪っぽい、寝転んだり姿勢を自由にできる)だったからである。
合宿のスケジュールはシンプルだった。チェックイン・チェックアウトと食事の時間は集団行動し、食事の時間には読んだ本の話をきっかけに語り合う。
その他の時間はすべて個人行動。読書し、適宜休憩する。
ほんとうに、本を読むためだけに二泊三日の間、旅館に立てこもるのである。
第二章 合宿へ行こう
別府を歩く
チェックインは午後三時。合宿といえば、行きの道中もみんなでワイワイやるイメージがあるかもしれない。そんなものは思い込みというものだ。
現地集合である。
せっかくの機会なので、少し早めに現地に向かい、町の空気を感じようと思った。
午前九時、福岡市の自宅から電車で別府へ移動。別府駅に着いたのは午前十一時だった。
駅を出たら、雪が降り始めた。
旅館がある鉄輪までは、別府駅からバスで三十分の道のり。歩けば一時間三十分とGoogleマップが指し示している。
せっかくなので歩いてみようと思った。
別府駅近く、さとう皮膚科の壁に岡本太郎の作品が出現。意味不明である。歩いてよかったとさっそく思う。
だんだん吹雪になってきたので、近くのスターバックスコーヒー別府公園店へ避難した。20代を中心としたスタッフたちは、全員美女とイケメンだった。思わず、抹茶クリームフラペチーノを注文した。
リフレインが叫んでる
雪が弱まる気配がしなかったため、店を出て歩き始めた。寒さから気を紛らわすために、音楽を聴きながら歩いた。
イヤホンから、ユーミンの『リフレインが叫んでる』の井上陽水のカバーバージョンが流れ始めたとき、目に飛び込んできた景色に運命めいたものを感じた。
ユーモアと飢餓
それにしても、お腹が空いた。どこかでランチを食べるつもりで時間には余裕を持っていたが、なかなか飲食店が見つからない。
代わりに、こんなものを見つけた。
やるな、大分県警。
電信柱に貼り付いている。これは、思ったよりも数が重要である。
極端ではあるが、大分県のすべての電柱をこの仕様にすると、あっという間にディストピアが完成する。
しかし、絶妙な本数だけ設置することで、ユーモアとして目に映るのである。そこには過不足があってはならない。
ところで、食事ができそうな場所がコンビニ以外に見当たらない。ようやく見つけたジョイフル(ファミレス)も「まだ他の選択肢があるかもしれない」と信じてスルーした。
結局、ランチを食べ損ったまま、飢餓状態の市民はチェックインの1時間前に宿に到着した。
第三章 合宿初日
奴隷予備群に対する神対応
「早めについてしまったので、ロビーの椅子で待っていてもいいですか」と尋ねたところ、「お部屋の準備はできておりますのでどうぞ」と一時間早めに部屋に通していただいた。
これから奴隷になろうというのに、神対応である。
風呂にチェックイン
一番乗りを果たした私は、さっそく大浴場へ向かう。奴隷になる前に市民生活を満喫しようという魂胆である。
午後二時という中途半端な時間ということもあり他の客は見当たらない。貸切状態である。定員二名サイズのこじんまりとしたサウナで汗を流す。水風呂に浸かる。冷たすぎず、かといってぬるくもないちょうどよい温度。そして、外気浴。一時間半歩き、ベトついた後のサウナは清々しい。
ととのいすぎると読書どころではなくなるので、三十分程度で切り上げ、部屋に戻った。
禊
午後二時三十分、M氏が登場。自分だけさっぱりするのもどうかという罪悪感もあり、「ぜひ露天風呂をお楽しみください」と旅館サイドの人物であるかのごとく入浴を勧めた。
その後すぐに、D氏も登場。「ぜひ露天風呂をお楽しみください。M氏もいますよ」と再び旅館サイドの人物であるかのごとく入浴を勧めた。
奴隷合宿スタート
午後三時、H氏が登場。これで全員そろった。そろったはずなのだが、M氏とD氏がなかなか風呂から帰ってこない。満喫しているらしい。
午後三時二十分頃、ついに全員がそろった。
いよいよ書物による自己変容の奴隷合宿が始まる。
開始直後、H氏は「緊張してきた」という謎のコメントを発した。本を読むのに緊張する人もいるのだ。
ゴルフのスイングの指導をインストラクターに仰ぐかの如く、H氏は「どういう姿勢で本を読めばいいですか」とM氏に尋ねた。M氏は「自分が一番楽な姿勢で読むといいと思います」と何でもないようなことをあたかも何でもあるかのような雰囲気で答えた。
露天風呂にて
しばらく部屋で読書をした後、部屋以外の読書スポットを模索した。
防水仕様のKindleを持って大浴場に向かい、サウナで読書、水風呂で読書、露天風呂で読書をそれぞれ試した。
サウナでは、Kindleが熱を帯びて壊れそうだったのと頭が回らなかったため読書は捗らなかった。
水風呂では、つい水に浸かり過ぎてしまうため身の危険を感じた。
露天風呂はおすすめである。少しぬるめの風呂であれば、長時間入浴しながらの読書が可能だ。露天風呂Kindleはなかなか気持ちの良い体験だった。
他の客の迷惑になる可能性があるため、人がいない時間帯を狙う必要があるだろう。
罪と罰と罰
今回、普段の私なら読むことのない「小説」に挑戦した。ドフトエフスキーの『罪と罰』だ。
私は小説が苦手である。人間の感情の機微を読解し続けると具合が悪くなる。
映画なら、油断してもラストシーンまで自動的に進んでくれる。小説はそういうわけにはいかない。1ページずつ自分でめくっていかなければ進まないのである。ずっと感情読解モードをオンにしていなければならないのだ。とにもかくにも具合が悪い。
罪と罰における主人公の罪らしい罪にたどり着く以前に、この読書体験こそが罰であるかのように感じられた。
悶絶しているうちに、あっという間に午後七時、夕食の時間になった。
食卓を囲み、読んだ本について語り合う。音声メディアの未来、小説の読み方について、など。
M氏が「『罪と罰』の登場人物は全員が話の長いおばさんみたいな話し方をする」と言ったのを聞いて、今のところ登場している人物だけでなく全員がそうかと思うと気が遠くなった。あきらめて別の本を読むことに決めた。
さっそくの挫折であったが、感情読解機能をオンにして読むことが苦しいということが身を持って理解できたのはよかった。
いつかは小説が読めるようになりたい。
合理的、あまりに合理的
食後、部屋に戻ると布団が敷かれてあった。誰がどの布団を使用するかを決める。二十〜四十代の奴隷どもが布団のポジションを決めるとどうなるのか。
「眠くなった人から順に、奥から詰めて寝ればいい。」
ここが野戦病院であることを理解した。
私はこの瞬間、奴隷だと自覚した。
息が詰まるからこそ、息抜きが輝く
H氏とM氏と三人で露天風呂へ。「人にお金を渡すと恨まれる説」をさまざまな事例から検討した。読書が主であるからこそ、こうした息抜きの時間がより一層輝いてくるように思えた。
「H氏と一緒にいると、周囲の人間は能力が10%強化される特殊効果がある」とM氏が言った。そう言いながら、M氏は出口と間違えてトイレのドアを開けた。M氏の能力が10%強化された結果、である。
風呂上がり、ラウンジのビールサーバーでビールを注ぐ。夜景を目の前にビールを飲みながら、本を読むのであった。
ラウンジは貸切状態。日曜日の旅館は客が少ないため狙い目である。
第四章 合宿二日目
アンバランスな朝食
午前八時起床。他の奴隷たちは一体何時に寝たのだろうか。一番奥に寝ていた(つまり、一番最初に寝た)私には、知る由もない。すでにM氏とD氏の姿はなく、H氏はまだ眠っていた。
「朝食前に朝サウナをキメるかな」と大浴場へ移動すると、M氏とD氏の姿があった。遅寝なのに早起きで感心する。
午前九時、朝食のため全員集合。朝が弱いズタボロのH氏と風呂上がりですでに仕上がった三人が一緒に朝食をいただく。食事の栄養のバランス感と各人のコンディションのアンバランス感が何となく面白いと感じられた。
朝の読書
この日は、天気が良かった。一面ガラス張りのラウンジに陽の光が差し込む。…いや、差し込むといったレベルではない。ラウンジで本を読もうと思ったが、暑過ぎて断念した。
ロビーの椅子に腰かけ、コーヒーを飲みながら岩田靖夫氏の『ヨーロッパ思想入門』を読んでいた。普段、コーヒーはブラックしか飲まないが、何となくシュガーを入れたい気分になった。この環境下における自己変容の気配を感じた。
しばらくすると、M氏とD氏と同じ空間に集まってきたので、息抜きにしばし談笑した。旅館のスタッフが掃除機をかける音をBGMに「自我は現象である」という話をした。D氏は戸惑った。
その人を見ても分からないことは、その人の「関係」をよく見る必要がある。
あっという間に午後一時を過ぎた。
奴隷たちは旅館の近くにあるラーメン屋に出かけた。後にも先にも旅館から出たのはこのときだけである。
中華麺、坦々麺、豚骨ラーメン…誰の影響も受けない面々。麺だけに。
オイディプス王
旅館に戻って読書を再開した。
『ヨーロッパ思想入門』の中で、ソポクレスの悲劇『オイディプス王』の話が出てきて、興味が湧いたのですぐに購入した。旅館にいても本が手に入る。そう、Kindleならね。
捨て子だったオイディプスは、かくかくしかじかでコリントスの王の子として育てられる。デルフォイの信託所で「父を殺し、母を犯すべし」という信託を受ける。そんな背徳行為を避けるために、オイディプスはコリントスを逃げ出し、隣国のテーバイへ逃げる。
その道中、国境近くでオイディプスは傲慢な老人を中心とする集団に絡まれ、憤り、オイディプスはその老人たちを殺した。
テーバイに移り住んだオイディプスは、かくかくしかじかでライオス王の妃イオカステを娶り、王亡き後の王位についた。
かくかくしかじかで、実はライオス王こそが本当の父で、イオカステが母であることが判明する。そして、国境付近で殺してしまった老人は、なんとライオス王であった。
こうして、デルフォイの予言を避けるために行動を起こしたはずのオイディプスは、結果としてデルフォイの予言通り、父を殺し、母を犯してしまったのだ!!
お腹が満たされると眠くなる。三十分ほど布団に入って昼寝した。
子育て
夕食の時間になった。日頃一日二食の生活をしているため、三食食べるとなるとそれだけで忙しい。
メニューは、大分の郷土料理「地獄蒸し」。地獄蒸しとは、野菜類や魚介類などの食材をざるなどに乗せ、温泉から噴出する蒸気熱を利用した加熱調理器「地獄釜」から噴出する蒸気で加熱調理した料理、らしい。
食事を摂りながら、子育てとコミュニケーションについて語り合った。子どもとどのように接するか。四人のうち三人は子どもがいない中、熱心に話していた。
いや、本来なら子どもがいるかいないかなど関係ないはずなのだが、世の中には子どもの話題となると「子育てしたことないくせに!」と怒り出す人をよく見かける。
子育ては、いつの間にか性の話程度にはセンシティブな話題になってしまったと感じるし、普段の私は黙っていることが多いから、そうでないこの場は新鮮だった。
ちなみに、M氏は日頃から子育て中の人と積極的に子育てについて語るらしく、あらためてツワモノだと思った。
夕食を食べ終え、各自読書へ戻る。
I have a dream.
午後十一時、一足先にH氏が奴隷を卒業した。
帰り際に「I have a dream.」と言っていたが、解放されたのは本人だけであり、私たちはまだ奴隷のままである。奴隷仲間のみんなで、H氏の奴隷卒業を見送った。
ファクト認識
最後の晩。深夜〇時をまわり、残された奴隷同士で語り合った。合宿っぽい。
(実利・実害が発生する場面において)ファクト認識がいかに重要であるかを話し合った。人間の98%はファクト認識ができておらず、主観的な印象や感想をあたかもファクトであるかのように思い込んでしまう。
ファクト認識がガタガタで、話者同士の前提としているものがバラバラのためコミュニケーションによる塔の建設ができない。
ファクトを認識できていない例を何通りも出しながら、いかに危険であるかを共有した。心霊的な怖い話をするノリで、実務的な怖い話をした。
そうこうしているうちに、時刻は午前五時をまわっていた。
私たちこそが、時間というファクトを認識できていなかった。このような間抜けさこそが人間というものだろう。
第五章 合宿最終日
王になる
午前八時、起床。つらい。ほんとうにつらい。最悪の目覚めである。私は睡眠不足にめっぽう弱い。
朝食が用意されていたため、最後の力を振り絞り、何とか起き上がった。ビュッフェ形式であれば、きっとスルーして眠っていただろう。
それにしても、全員元気がない。箸が器にあたる音が空間に響き渡る程度には無言だった。
ところが、食べ物を噛むうちにだんだん目が覚めてきたようで、十五分ほど経ってから徐々に話し始めた。
高崎山のサルの話をした。ボスザルではなく、ボスザルの母こそが重要であるという説があるらしい。ボスザルの母が亡くなった途端、ボスザルが追い出され、行方不明になった。そうして元々拮抗していた三つの派閥のうちの一つが滅び、二強になってしまった。二強になった途端、パワーバランスが崩れ、そのうちの一つの派閥が人間の観光客の貢物をほぼ完全に押さえてしまったため、もう一つの派閥は劣勢に立たされているとのこと。
A 最大の派閥
B 劣勢の派閥
C 滅びた派閥
このような状況において今からボスザルを目指すとしたら、あなたは果たしてどのような戦略を取るだろうか。
サル界においてなら私はAのルートに入り込み、コミュニティ内で政治をしてのし上がろうとするが、人間界においてはまったく異なる戦い方をするだろう。
「死にたい」と言ったなら
チェックアウトは十二時。朝食を食べ終え、まだ時間があったので、三人で最後の露天風呂へ。この日もまた天気がよく、清々しい朝風呂であった。
自我やファクト認識や子育てやイエスキリスト、この世界がいかに無意味であるか。
そんなことを話した。
死にたくなったときに「死にたい」と言って深刻に捉えられすぎると困る。いや、深刻ではあるのだが、一方でまったく深刻ではない。同じでありながら、まったく異なるものが共存しているのであるから、一部は真剣に受け止め、一部は笑い飛ばしてほしい。
そんなことを話した。
再び、ファクト認識
脱衣所に戻り、そして驚愕した。
時計の針が、十二時五分を指していたのである。チェックアウトの時間をすでに五分過ぎているにもかかわらず、私たちは全裸だった。
相変わらず時間というファクトを認識できていないようだ。間抜けな奴隷たちは慌てて身支度をした。私は先にフロントで支払いを済ませに走った。
「遅くなってすみません、残りの二人ももうすぐ来ますので」
「いいえ、大丈夫ですよ。ところで…」
「はい、何でしょうか」
「…何の集まりだったんでしょうか」
「旅館でただ本を読むだけの集まりです」
「そうだったんですね!!いやー、スタッフのみんなで噂していたんですよ!!何してる方々なんだろうって!聞きたいな、聞きたいな、って思っていたんですけど、でもね、聞いたらまずいかなって、でも、ほんとうにみんなで気になるねって言ってたんですよ!」
「相当怪しいですよね。相部屋のくせしてバラバラにやってくるし、二泊しているのに、ちっとも旅館から出ずにグズグズしているし。かといって、パソコン開くわけでもなくワーケーションって感じもしないですしね。」
「そう!!お仕事をされているようにも見えなかったです!!」
「作務衣と長髪と金髪と普通の好青年と、メンバーに統一感がまったくありませんし、まるで予想がつきませんよね」
「いやー、これでスッキリしました!!!!!!!!!」
「よかったです。本を読んでいただけなので。反社会勢力ではありませんので、安心してください」
旅館の方は、ファクト認識ができたことでスッキリした様子だった。テンションが爆上がりしていらっしゃった。
ただし、私たちがチェックイン定刻の一時間前にチェックインし、チェックアウト定刻の三十分後にチェックアウトしたというファクトは見落としている可能性がある。
支度を終えたM氏とD氏がやってきて、お世話になった旅館ともいよいよお別れするときがきた。と同時に、奴隷から再び人権を持った市民に戻るときがきた。
書物による自己変容の奴隷合宿は、想像以上に充実していた。
終章 書物による自己変容の奴隷合宿を終えて
楽しむことを目的にしない
楽しむために他者と過ごし「楽しかったね」となるのが私は嫌いだ。楽しむために時間を過ごし、実際に楽しかったのだから素晴らしいと思うかもしれない。
しかし、私はそうは思わない。もう二度と叶わないような気がしてつらい。
それは、夏の日の花火大会のイメージなのである。花火大会が終わった後の帰り道のあの喪失感よ。
来年はきっともうみんなバラバラになっているから、今年のように花火大会で集まることは叶わないだろうと分かっている。分かっているからこそ、「楽しかったね」がお別れのあいさつに聞こえてつらい。たとえ、それが「また行こうね」であっても「さようなら」に聞こえる。
誠に勝手ではあるが、【この花火大会】でなければ意味がないのだ。このようによく晴れていて、辺りは賑わっていて、花火がよく見えるあの丘の上のほうが偶然空いていなければならないし、その近くには浅はかな様子で騒ぎ散らかす輩がいてはならない。そして、そこに君がいる。そうでなければ何一つ意味がないのだ。
そんな願望は当然ながら叶わない。何かが【この花火大会】とは違いすぎるのだ。この世界で唯一意味のあることは、まるで叶いそうになく無意味に思えてくる。
「楽しむために」というのは、私の中でそのような絶望を生む。楽しむことを目的化しない。楽しむことに対して完璧主義的な考えに支配され、実際に全力で楽しみ、そして、その再現性のなさに絶望する。
私の反省
今回の『書物による自己変容の奴隷合宿』は、シンプルに楽しかった。一番の感想はそういうことになる。これがただの旅行であれば、以上ということになるが、そういうわけにはいかない。
書物による自己変容こそが目的であるおかげで、楽しかった気持ちはただの副産物である。
この合宿における私の反省としては、本を読んでいた時間が思ったより少なかったこと。これに尽きる。風呂とコミュニケーションに少し時間を使いすぎた。
原因は本の選定の甘さにあったと考える。日頃読まない本を読むという意味で小説を選んだところまではよかったが、まさか半日でギブアップするとは思ってもみなかった『罪と罰』と格闘する予定だっただけに、いきなりターゲットを見失ったのだ。その後の選書を気分でやってしまったので、「自己変容が起こりそうな本」という目的的な視点が欠けていた。
ただ、途中から『オイディプス王』に切り替えたことで少しは挽回できたように思う。普段、悲劇を読むことなどまずないため、貴重な読書体験になった。
次回は、挫折することもあらかじめ想定し、自分の中の課題図書を事前に五冊ぐらいは用意しておこうと思う。また、行きたい。
奴隷合宿は花火大会ではないのだ。
「書物による自己変容の奴隷となること」は「楽しむこと」を目的にするよりも遥かに再現性が高い。
最後に、合宿全体のよかったところと今後の課題を列挙する。
よかったところ
旅館のサイズがちょうどよかった(大きくなく、かといって小さすぎなかった)
相部屋であることで合宿感があった
和室で寝転んだり、いろいろな姿勢がとれた
ラウンジなど部屋以外にも読書できる場所があった
他の人の読書する姿勢に影響を受けて読書する気になれた(普段読まないような本を読もうという気分にもなれた)
今後の課題
旅館の方にいつどのように趣旨を伝えるか
全員が本を読むことにコミットするためにどうすればよいか
本を読むことにコミットしない人がいたときにどうすればよいか
時間というファクト認識をどのようにすればよいか
参加者募集型で実施したとき、段取りにどれぐらい負荷がかかるか
<書物による自己変容の奴隷合宿 実施のためのチェックリスト>
今回の合宿レポートを読んで、中にはご自身で実施してみたいと思われた方がいるかもしれない。実施までのチェックリストと実施のポイントを以下に掲載しておくので、ぜひ参考にしていただけたらと思う。
書物による自己変容の奴隷合宿の目的
書物を主とした合宿体験を通じて、自己の変容を促す
内容
本を各自持参して、温泉旅館に立て篭もる
あくまで本が主、その他はすべて従である
読書ならびに休憩は各自で行う
食事の時間は共にし、読んだ本の話を中心にする
実施までのチェックリスト
フェーズ1 案出し
□ 主要参加者を決める(複数人で企画・運営する場合のみ)
□ おおまかな実施時期を決める
□ 目的と内容を確認する
□ 予算感を主要参加者と共有する
□ 行き先(エリア)を決める
フェーズ2 概要
□ 日程を決める
□ 定員を決める(最低遂行人数、最大人数)
□ 旅館を決める
□ 概算の費用を把握する
□ 会費を決める
□ 大まかなタイムテーブルを作成する
□ キャンセル規定を決める
フェーズ3 募集
□ 合宿の概要をまとめた案内用資料を作成する
□ 参加者を募集または声かけする
□ 参加者を確定する
□ 参加費を集金する(未回収リスク低ければ当日でもよし)
□ 参加者名簿を作成する
□ 旅館を予約する
フェーズ4 確定
□ タイムテーブル(詳細)を決める
□ チェックインの時間
□ チェックアウトの時間
□ 各日の食事時間
□ 行きの交通手段を決める
□ 帰りの交通手段を決める
フェーズ5 確認
□ 合宿参加者へリマインドの連絡をする
□ 最終の参加者を把握する
□ 旅館へ人数や必要事項を最終確認する
□ いざ、合宿へ
フェーズ6 実施
□ 参加者を確認する
□ 参加者へ食事時間のアナウンスをする
□ 旅館の方との報告連絡相談
□ 旅館へ宿泊費を支払う
上記の段取りと概要が分かる資料ができていれば、合宿が始まった後はほとんど放置でも問題なさそうだ。むしろ、出しゃばって他の参加者に干渉してしまうことのほうが悪影響と思われる。自主性を削がないためにもリーダーシップやお節介は封印すべきであり、人ではなく仕組みで動ける体制をどのように構築するかが重要だろう。
御礼
長文、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
そのうち第二回の奴隷合宿を企画したいと思います。noteでも告知するので、「一緒に奴隷になってもいいよ」という方は、ぜひ参加していただけると嬉しいです。
最後に、第一回の合宿を実現し、ともに奴隷を経験した三名の仲間にこの場を借りて御礼申し上げます。このメンバーだからこそ起きた自己変容の機会の連続だったと思います。ありがとうございました。
H氏の感想
M氏の感想
うえみずゆうき
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