ひとのこころにふれること
12月はいきなり忙しかったのだが、どうにか時間をやりくりして、こちらのイベントを視聴した。
登壇者は、『ダイエット幻想』などの著者の磯野真穂さん、『居るのはつらいよ』などの東畑開人さん、『新復興論』などの小松理虔さん。それぞれ当事者やケア、こころなどについて著作をものしているいま注目の書き手といえる。三人の著作もそれぞれ読んでいて、そういうわけだからこのイベントも楽しみにしていた。
イベントは大学の内/外で知見を発信することの話題から始まり、運動と当事者、こころにふれるということのリアリティ、コントロールとケアの倫理、時間と信頼、カテゴリーと唯一性、などのさまざまな問題を語り合っていた。
登壇者の三人方は、いずれも大枠では主に大学という制度の外で自らの知見を発信してきた。人類学や心理学、運動の言葉は、広い意味で人間に関わる以上、大学の内/外という二分法は、自然消滅してしまうような領域にある。そういう意味で、いま危機に瀕している大学のシステムの外で言葉を伝える事態の意味が話題に上ったのは、自然な流れだったといえる。
次に話題は当事者の語りのことにおよぶ。当事者主権という言葉が生まれたように、それまで声を発することのできなかったひとが言葉を発信して、そして主権をもつようになったことはよいことである。しかし今度は社会の方で、当事者の言葉が優先されるべきで、当事者以外は語ってはならないという風潮が生まれていった。このことをどう解するかという話。
何かを体験したことによってうまれる、その人だけが理解するリアリティ。それ自体は確かなものとして存在する。磯野さんは人類学者ロサルドの首狩り文化のフィールドワークを例に、それまでわからなかった首狩り文化が、フィールドワークを通してロサルドのなかで変容が起き、首狩りをするひとびとの強い感情やこころが理解されるようになったといい、それを綴ったロサルドの本を読む読者にもまた伝わってくるようなものだったという。
こころにはふれるという言い方で表されるような、ある種の立体性、奥行きがある。それにふれたとおもうとき、人々はそのひとの語りに納得する。そこに語りの神聖性があるのではないか、そう推理される。小松さんは、当事者という言い方をせずに、その語りのリアリティにふれたかったから、共事者という言葉を選んだ、そう述べる。
当事者の言葉があり、それにふれる関係性がある。そこですれちがいが生まれると、ひとを傷つけるようになる。そこで傷つけないようにする、という理念を強調すると、コントロールの倫理が出てくる。ケアの倫理も、もともとひとを傷つけないようにするという理念を共有している。だからコントロールの倫理とケアの倫理は二項対立ではなくつながっていると東畑さんはいう。うまくケアされているときは、うまくコントロールがなされていることでもある。しかしそこでコントロールの倫理が強調されてくると、ケアの倫理にコントロールの倫理が忍び込むことになる。
コントロールの倫理がケアに忍び込むときは、安心ということが目されているときでもある。そこで、安心/信頼という分水嶺が、コントロールとケアの二分法と重なってくる。コントロールする側は、自分が安心したいから、がちがちの管理体制を敷くことになる。そこではケアの時間にあるような、向かうひとへの信頼が失われているということでもある。ケアの倫理では、ケアをするひとから受けるひとへの信頼、管理の視線をもたなくてもうまくやっていけるだろう、という信頼が重要な側面になっていく。これくらいならいいんじゃないか、というやり方でひとを信頼すると、ケアになる。しかし、ケアの時間には不確実性がともなう。その不確実性を恐怖に思い、信頼がなされないとコントロールになってゆく。
コントロールの倫理、システムが強調される現代社会では、信頼が損なわれている社会だといえる。それでは信頼を改めて醸成するにはどうしたらよいか。東畑さんは時間が信頼の本質的な要素と述べ、とにかく長い時間ひととかかわっていくことしかないという。対して磯野さんは、ただ過ごすだけではなく、時間の使い方こそが重要だと述べ、それは時間に対するひとの身構えの問題なのだと述べる。信頼には時間が必要だが、時間の身構えが時間の短さという問題を超えることもあると。
東畑さんがいうには、現代のコントロールの究極的なあり方は、投資信託に突き詰められるという。そこにはひとの物語が存在しない。ただリスクをマネージメントするやり方やシステムだけがそこにある。小松さんは、いまのユーチューバーがバズる動画を作成するためそのノウハウが集約されていることに、これさえやっておけば失敗しないリスク計算だけが残っている例を上げて、結局は数値化されたリスク計算に語りが回収されていくことを述べる。
そこにあるのは、現代社会で物語を受けとめることの難しさである。いや、投資信託的なリスクマネージメントの前では、もはや物語的なものは社会に求められていない。そこではひとびとの唯一性を求めることが難しくなっていることを磯野さんは語る。磯野さんは宮野真生子さんとの共著『急に具合が悪くなる』を昨年出版したが、読者の方からの感想として、ここで語られているような関係性やラインを私は描けない、という感想を多くもらったという。そこにあるのは、こういう生き方もある、という事実が人々には容易に受け取りがたくなっているということであり、また個人の人生や物語がたとえば病人の語りといったあるカテゴリーのなかの語りとして回収されていることであり、そこでは個人の生の唯一性が受けとめきれなくなっているという事態である。
違った人生や価値観が出会うとき、すれちがいや傷つけ合いがうまれる。その意味において、ひととの出会いで傷つきをなくすことはできない。だから、自分が相手を傷つけること、また相手に自分が傷つけられること、それを受けとめた上でどのようなコミュニケーションができるかが問題になってくる。カテゴリーにあてはまらない唯一性を求めることは、傷つき合う関係をつくることでもある、と。小松さんは、生活のなかで出会ったひとたちとの経験を出して、ひとの同じ話を何度も聞いていると、そのひとが大事にしてきた価値観や人生があるんだとおもえる瞬間がくるという。それがラインの関係だと。
(これだけではないが)以上のような話題が出されたあと、最後に登壇者のそれぞれはものを書くにあたって誰のために書いているのか、という質問があがったのだが、その問いに対するお三方の答えを聞いていて、いままでの話題はこの問いにたどり着くためだったのかという、ことばに語りきれないような感動をおぼえた。ぜひ動画で見て欲しいのだが、人間の異なる文化にふれる人類学、こころにふれる心理学、さまざまなひとに出会う地域における運動、という三人のフィールドの感触が交差して結実する瞬間だったとおもう。その話題のなかで、ひとつだけ磯野さんの言葉を挙げるなら、人文知は、みんなが命をもっているということに向けて書けるのがよいところ、という意味のことを語っていたことを挙げておきたい。わたしも、それがすべてであるようにおもえた。
人文学にふれていて、結局誰のために語っているのだろうという問いは、つねに忘れないでおきたい。そういうことはふだん考えていないわけでは決してないけれど、最近は忘れがちになっていたともおもう。自戒として。
信頼、ということがイベントの話題にもあったが、結局この社会は人と出会い、その人の人生や物語を聞くことが、ものすごい恐怖になっている社会になってしまったのだとおもう。その恐怖は目に見える形で顕在化しないにしてもはっきり存在しているのだとおもう(いまの疫病に右往左往されている現状を見るとはっきり視覚化されているともいえるが)。
そこに対して、どう楔を打ち込んでいくか。イベントではそれに対する身構えのことが語られていたが、自分とはちがうひとに出会うこと、そのひとの価値観や人生にふれることが、喜びになるような出会い方をしたいものだなとおもう。自分とはちがう人生のことを想像して聞いてみることが重要なのだろう、まず。
いまの社会では、ひとや物語と不幸な出会い方をしてしまったとき、それと出会いなおすこと、アンラーニングすることが難しくなっている社会なのだろうとおもう。そういう意味で、この社会にはまだ誤配はたくさんあるが、その誤配との出会い方は不幸なものとしか受けとめきれなくなってきてしまっているところに、限界があるのだとおもう。負の誤配だけがある社会。そこに、喜びを見いだすことはできるのだろうか。