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"人生を編集する"

今日のタイトルは、長年愛用している手帳会社のコンセプトを拝借。

大学生のときから日記を付けるようになりました。
社会人になってからも、意識的に書くようにしています。
その日起こった「出来事」はもちろん、その出来事に対して純粋に、その時その場で湧いてきた感情や、少し時間をおいてからもう一度振り返って考えたこと。さらに数年経ってパラパラと見返してみて「こんな風に思ってたっけ」と自分の思考回路を再確認することもあります。
「なんだか書くことないなあ」と思う数日間もあれば、余白を使っても書き切れないほどの言葉が出てくる日もあります。

”人生を編集する”

日記を書いていると本当にその通りだなあと思います。
出来事があって、自分を含む人々のやりとりがあって、その現場に感情を動員する自分がいて、そのあと一人になって日記を書いているときに、一連を思い出しながら書き留めます。その時の出来事を「どう書くか」、その時の自分や他者のふるまいを「どう書くか」、時間的距離を置いて眺めてみて、その全体に対して「どう書くか」。
日記のいいところは、書き直しや別の考えを後から付け足すことも自由です。書いて、直して、足して、見返して、その日を編んでいく作業です。

かつての教え子で「自分のやっていることにみんながついてきてくれない(理解してくれない)」と相談しに来た生徒がいました。

「私のいっていることは正しいのに」
(※確かにまっとうな意見を言っている)

「周囲のみんなは自分のことしか考えてないんだ」
(※確かに最近対立が多く集団の雰囲気が悪い)

「楽していいとこ取りしようとしているのがむかつく」
(※生徒間の対話が少なく協力していこうとする姿勢はお互いにみられない)

「こんなことなら私だけ努力していても意味がない」
という感じで、半ば投げやりに、ふてくされ気味に話をしていました。
いろいろと具体的なエピソードを挙げてくれたので、彼女の不平・不満がどういう風に大きくなって今に至っているかが分かってきました。

そして、次のようにアドバイスしてみました。
「相手が理解してくれない、っていう気持ちは、相手に理解してほしいっていう気持ちの裏返しだから、相手が理解してくれるようになるためには、どこで意思疎通が行き詰まっているのか書き出してみたら?
同じ物事について考えていても、一人ひとりがまったく同じようには受け取らないし、同じように解釈してその後の言動に表しているとは限らないから、自分の視点とその他の人たちの視点を取り入れてみて」

その後、何度か相談に乗りながら、彼女自身のふるまいが劇的に変わっていくのを目の当たりにしました。
自分の考えと相手の考えを並べ比べてみて、共感できるところや変わってほしいところ、自分なりに考えてはみたけれど答えが出なくて悩んでいるところも含めて丁寧に伝え、相手にも同じように意見を出してもらって、どうするのが「私たちにとって」いいのかを周囲を巻き込んで一緒に考えていくようになりました。
努力しても意味がない、と言っていた彼女ですが、自分だけに還元される努力よりも、相手を含めた集団全体がよくなる方法を考えていくようになりました。というより「良くなった状態を到達点」と捉えるのではなく、「みんなで考えていくこと」をよい状態として、周囲に配慮した行動が取れるようになっていき、お互いの「最適解」を探っていく作業が上手にできるようになりました。
出会った時には「自分が成長すること」を目標にしていたその生徒は、卒業するころには「みんなが成長できること。周りに感謝すること」を掲げていました。
(この経験は私にとってすごく大切です。正直いうと、相談を受けたときは私が思っていることを彼女に伝えただけだったのに、しっかり受け止めて考え方や行動を変えていこうとする姿には目を見張るものがありました。この変化は、彼女の卒業後の進路選択にも直結していきました。彼女は社会人になって人をサポートする仕事に就いています。元気にしてるかな。)

人生の編集は、自分自身で進めていくものですが、登場人物は自分以外にたくさんいるはずです。さまざまな他者の存在が視界に入ってきて、それらの人々の視点を織り交ぜながら、ストーリーを作り上げていくことが物語を豊かにしてくれるのかもしれません。


こういう事は、親子関係にも言えると思います。
ある時期から学校に足が向かなくなる子がいたとして、本人の思いや考えがそこにはあります。勉強が難しくてついていけない(あるいは簡単すぎる)、誰かとの人間関係がうまくいかない(あるいは集団生活そのものが煩わしい)、家族が分かってくれない(あるいは干渉しすぎる)、そのほか健康状態が良くない、など考えられる要因はさまざまです。全部が複合して「何が原因かはっきり言葉にできない」というケースも多々あり、「なんとなく全部に疲れてしまい、気力が湧かない」という漠然とした理由が挙げられることも増えています。
それとは別に、親の思いや考えも存在します。欠席が続くとまずいのでは?しかし本人にとって必要な時間?勉強は遅れてしまわないだろうか?転校することになったらいつどういう手続きがあるのか?少し時間がたてば行けるようになる?そもそも何が原因なのか知りたい(そしてその原因を解決してあげたい)…。

傾向としては、子どもは「いま、ここ」のしんどい状況をわかってほしいと思っています。一方で、親や大人は「これから、この先」の状況を不安に思い、「早く元の(前の)状態に戻ってほしい」と考えることが多いように感じます。
「学校に行けない、行かない」という話題を共有しているのに、お互いの意見はつねに平行線になりがちです。
平行線をたどるうち、お互いがお互いの無理解を嘆くようになります。
「どうして分かってくれないの?」という子どもの訴えと、「どうしたいの?どうなっていきたいの?」という親の焦りが対立してしまい、親子の信頼関係をゆがめてしまうことがあります。

こういう場合、気を付けたいことは、子どもには子どもの人生があるということです。そしてそれを編集する主体は、子ども自身です。ふだん生活全般をサポートしている親や大人は、あれもこれも手助けしたくなるものですが、子どもが主人公の物語を勝手に書き加えてはいけないのだと思います。

子どもの育ちを支える過程には、「待つこと」も含まれています。
大人の目線で、先の見通しを立てて物事を進めたいと思う気持ち、とても分かります。けれど、目の前の子どもが何かに悩んで前を向けずにいる時には、一緒に立ち止まってみることも大切です。同じ景色を見ていても、どこを切り取ってどう感じているのか、本人が語り始めるまで待ってみることで、お互いの「最適解」を見つけるためのヒントになるかもしれません。

次回は、「沈黙」や「待つこと」の意味について、エピソードを加えつつ書き残していこうと思います。


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