目指したい鈍感さ、捨てたくない繊細さ

私は産まれた頃から他者より神経感覚が数倍高かった、らしい。子供の頃からそれを良く親に言われていた。
確かに子供の頃の怖がり加減はかなり凄かったし、痛み耐性も超弱かった。
当然な事に、他者の心理の動向にもとんでもなく鋭敏に感じていた。
対戦ゲームなどは、これの為に常時接待プレイ(相手を楽しませる為に敢えて手を抜く)しか出来なかった。
今考えれば失礼極まりないし、そもそも遊んでいて面白くもない奴である。

聴覚過敏などはその中でも最も際立つ性質だった。
冗談でも大げさでも無く、私はこの性質の為に人生の半分以上を本来(と思われる)の力の3割も出す事が出来ずに生きてきた。
一時期は命を絶つ事まで真剣に考えたし、それが無理ならせめて聴覚を潰そうかとも考えた。
ついでに言うと、嗅覚も中々に際立つ。

…これ以上書いてもしょうがないくらい、探せば出てくる。
我ながら厄介な身体だと実感するし、痛感もする。

こんなんだから、私はどれほど鈍感な人物に憧れたかは、殊更アレコレ書く必要も無いだろう。
鈍感になれば一体どれほどの輝く人生を送れるのだろうと、一体どれほど想い焦がれたか。
しかし「これが自分の身体であり存在である」となるので、やはりどうにもならない。
「配られたカードで勝負するしかない」とは、正にこれそのものだろう。


しかし最近は少しだけ自分の内側の風が逆巻始める流れを感じる。

「もしも俺が鈍感なら、こうまで自分の気持ちを、心を知ろうと・感じようとしただろうか」

「もしも俺が鈍感なら、こうまで相手の気持ちを、想いを知ろうと・感じようとしただろうか」

こんな風に感じる事が増えている。

私はかつてほんの少しだけ創作活動モドキを行っていた事がある。本当に「モドキ」というレベルでしかないのだが。
しかし生来からの馬鹿正直単細胞な私には、嘘の世界を創り遊ばせ、それを表現する事は出来なかった。
表現出来たのは、自分の内面世界のさらに奥底にある核の部分を引きずり出す様な表現だけだった。つまりリアルそのもの。をちょっとだけ…いやそれなりに誇張したものだった。

それだけに私は創作を行える、つまり「嘘の世界をまるで在るかのように表現出来てしまう」人の事を心底尊敬した。てか今もしている。
一体彼ら彼女らは、幼い頃から幾つの世界を創ってきたのだろう?その世界をどれだけでも大きく拡げて来たのだろう?
小さい頃私は宇宙の事を考えると、決まって思考が四散していく頭痛に苛まれたが、それと同時に「こんな小さな人間の脳は、宇宙を内包する事すら出来る」と、その凄さを感じていた。
そして創作を得意とする、いや、好む人々の脳内には、いつでも嘘で創られた素晴らしい世界が広がり、そこで架空の人々がリアルを生きているのだろう。
凄い事である。
(余談であるが、私はマジシャンも小さい頃から尊敬している。相手を騙す事で喜ばせるなんて、なんて素敵な技術だろうと心底思える。嘘や騙しが他者を楽しませ幸福にするなんて、これだから人の世界は面白い。)

再三になるが、私の脳内はそこに全く至れない。
しかし私にもそれらを感じ取る能力くらいはある。当然それらを楽しめる感性も。
それらは結局のところ、自身の内外の情報を子細に捉えられる鋭敏な感覚器官があったればこそのはず。
それを鑑みれば、事ここに至っていまなお「俺は鈍感になりたい」と思えるものだろうか。
「ノー」
即答である。これしか無いのである。


他の記事でも同じような事を言っているが、ここでもまだ言う。
生きるというのは本当に難しい。
自分には人生の難易度を最大級まで上げる弱点があって、そんなものは一刻も早く捨てて無くしたいと強く強く強く…つよ~~~~く思う。
ところが、そんな弱点が必死で生きるている内に自分を助けていた事実に気が付く事もある。
何なら強みにすらなっている事まである。

一体生きるとは何なのだろう?
人生とは何故こうも数奇なものに成る様に出来ているのだろう?

そしてそんな人生を嫌っていた自分が、今自身の人生を不可思議な面白味を、戸惑いながらも楽しめているのだろう?

ただ生きていた人間が、活きられる様になるとは、こういう事なのだろうか?


でも今の私にはその結論は必要無い。気がする。
このまま人生を活きて、ある時どこかの地点で今を振り返った時に「我ながらよくこうも生きて来たもんだ」と、笑いながら遥か遠くにいる自分を見られれば、それが一番良いのだろうと感じる。



…昨晩飲んだベイリーズ、久々のお酒は美味かったなぁ…

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