私の母は、俗に言うサイコパスと言っていい気質の持主。
他人の気持ちに目を向け、それを慮り、優しさや時の厳しさ、そういった人間らしい言動を採った記憶は皆無に等しい。

どういう心理なのか、いつでも自分は正しいと、それを意識する事無く自覚している(ようだ)。
そして自分と他者の心は地続きで繋がっていると確信しているようで、自分の思考思想感情感覚つまり脳と神経細胞由来の全ては同期していると、これも確信している(ようだ)。

だから、自分が理解不能なナニカを目の前にすると「なんでぇ!?」と口にし、その後さして間を置かずに「理解出来ぃん…」と突っぱねるように呟く。
この人の他者とのコミュニケーションはそこで途絶させられて終わり。その先に進んだ記憶は一度も無い。誇張で無く。

余談だが、私は先述の母の疑問を口にするその口調が今でも死ぬほど嫌いだ。
「私にはアンタの何もかもが一切合切理解出来ない」から始まり、その後の「アンタ訳分らん」に続いて表れる、相手個人を完全に拒絶するその態度。
あれは本当に人間なのだろうか?と、自らの母に対しそう疑問の言葉を浮かべる、そうあってしまう子供の心理に対し私自身微塵の後ろめたさも感じる事が出来ない。
母はそういう類なのだ。


そんな母は今実家にいる私の妹の世話に付きっきりだ。妹はもう何年も統合失調症の症状で苦しめられている。
母から逃げたい一心で、「逃げなければ俺は自殺するか母を殺すだろう」そう確信して実家から逃げ出した私であれば、妹のあの在り様は理解出来るし納得も行く。

そんな他者を全く顧みない母が、妹の存在に手を焼きながらも面倒を見ている期間が長く続いている。
私はその経緯を知り、私自身その問題に関わりも持っていて、心底こう思う。
「あの人にとっては気付きの機会なのだ。この事柄の本質に向き合わない限り、事態は絶対に好転しない。」

妹の世話を始めてから母は急速に老け込んだ。そしてその分幾ばくかは、人の事を見るようになってきた。
当然だ。妹の幻聴症状が酷くなると、無感情の理屈では絶対に対処出来ないのだから。

ちなみにだが、私の前では妹はその症状を見せた事は一度も無い。
元々緘黙症の妹は、趣味が合う私以外とは全くと言って良いほど話さないので、私の勝手な推測として私にはかなり心を許しているのだろうと思う。
種類は違えど、同じように精神の問題で苦しんでいる間柄でもあるのだし。

閑話休題

それでも何十年もその人の本質であり続けた性質が、180度好転する事は無い。まして当人が明確にそれを意識し・認め・受け入れた上での、悔恨からの贖罪含みの行動では無いからだ。
私自身、母に対等にものが言えるようになってからは、度々この類の話をしている。これで喧嘩になる事もそう珍しくはない。
私が言った中で恐らく最も強烈なのが
「そんなに人の心が理解出来ないのなら!理解しようとすらしないのなら!自分一人だけで生きれば良い!相手にも自分と同じ心があるんだと理解する気すら無いのなら!」
と、要は「出て行け」レベルの事も言った。
それでも人間である。先述の通りそう簡単に変われるものじゃない。
強烈な意識を持ってすら、なお変わる事は人生生きていて三本の指レベルの難易度だろう。


母は私に対しては余りにも強烈過ぎる反面教師になってくれた。現在進行形とも言えるが。
正直なところ、私も母と同類の気質は持っている。それを発揮した過去もある。本当に情けない…という言葉では全く足りないのだが、そう言う過去がある。
だから私は「成長しなければ、この先に俺が生き残る人生は無い」と、確信して決死(比喩でも誇張でも無い)の変身人生を歩んだ。今もその途上だが。
だからか、今でも私は自分の事が怖くなったり、ある種の場面に遭遇すれば「まだ駄目なのか」と失望したり、それを受けて「人の本質はこうも変わらないのか」と絶望したりもする。
私は母の事を100%断罪し切れる人間でも無いのだ。癇癪持ちの父に関しても、だが。


「一族の・血の呪い」なんて言葉がある。ミステリーホラー的な作品では根の題材にされる事もあるだろう。
私は自身の経験から、この類の呪いは「遺伝子にある負のプログラムが成す結果」だと思っている。
そして子が親を嫌ったり憎むのは、成長が存在の絶対条件である生物の遺伝子が「これを改善しなければ、次の世代にも欠陥が継がれ残るぞ」と、無言で子の無意識に訴えかけているのだろうと思っている。


親を憎み怨むしかない子の気持ちは、当人である子自身をして人生で恐らく最も哀しいものだと思う。
しかしそれが自分に人生を決死の覚悟で生きる心意気を与えもしている。

生きるとは一体何なのだろう?
負の想念に、いや怨念によって突き動かされなければいけない、そういう人生とは一体何なのだろう?
先の呪い分析をした私にしてなお、分からない。
理屈では当然理解しているし受容もしているが、それを超えた部分あるいはさらに奥そこにある何かが、まだこの事実を受け入れたがっていないのかもしれない。その拒絶をするには十分過ぎる人生だったから。

とは言え、とは言えだ。今の私は生きる事にそれほどの疑問は持っていないのも事実。
ここまで来られたのだ。誰の命令でも無く、過去と今がどんな人生だったとしてもここまで来られてこう在れている。

そう、それも含めての

「人生とは、一体何なのだろう?」

の疑問なのだ。


…さすがに私自身、想念が深く根を張っている話なので、余りにも取り留めなく纏まりも無い。
なのでここまでとしたい。

一体何を書こうとしたのか。途中からその目的意識すらも喪失していた。
そんな話でした。

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