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「スピノザー読む人の肖像」からリカルド体制での浦和を捉える

今回は読書感想文のようなものになります。國分功一郎さんが17世紀を生きた哲学者スピノザについて、主著「エチカ」「神学・政治論」を軸に置きつつその思考、思想に迫った「スピノザー読む人の肖像」を読みました。


哲学は人間そのものを捉えようとしていて、そうした本を読む時には抽象度の高い思考が求められるのですが、僕はそうした文章をパッと読んだだけではなかなか理解が及ばないので自分の頭の中で具体例に置き換えながら読み進めることが多いです。今回はこの本で言及される内容をフットボールに置き換えて捉えることで理解を試みたのでその記録の一部を残しておこうと思います。

また、2022年末にこの本を読み、今こうして文章にまとめていますが、浦和サポである僕としては、浦和の歴代の監督の中で個人的に最もフットボールの志向が合致していたリカルド・ロドリゲスとの旅が望んだ結果を得られる前に終わってしまったことについて、何故こうなったのかをシーズン途中からずっと考えていました。それについて、この本を通して自分なりに落としどころが見つけられるように思えたので、フットボール全体だけでなく、2021~2022の浦和とリカルドの歩みも交えて書いていこうと思います。


まず考えていきたいのは「意識」と「無意識」についてです。本文から引用しながら整理していこうと思います。

身体の変状とは身体が何らかの刺激を受けて、一定の形態や性質を帯びることを言うのだった。だとすると、身体がどのように変状するのかは、その身体の特徴と、与えられた刺激の特徴の双方に依存することになる。つまり、ある身体の変状は、その身体の特徴だけでなく、与えられた刺激の特徴をも含む(第二部定理一六)。

國分功一郎.スピノザ 読む人の肖像(岩波新書)(p.160).株式会社岩波書店.

つまり、人が何かを認識するというのは、何か外部からの刺激を受けた時、その刺激と自分自身の特性によって自身に変化が生じるとき、ということになります。僕と近い世代の人は熱が出たりすると僕には体があるってことに気付いたり、鼻が詰まったりすると今まで呼吸をしていたと解かったりするということを聞いたことがあるかもしれません。あれはこのことを言っているのだろうと思います。

そして、この「認識する」という状態は自らの行為の原因への「意識」へと繋がっていきます。

一つの行為は無数の原因によって引き起こされるものである。言い換えれば、私のもとで一つの行為が実現している時、それらの原因が私の身体に変状をもたらしており、私はその変状によってその行為を行うよう決定されているわけである。ところが私が「意識する」のはこの変状という結果だけである。私は行為の原因を知らない。自身の身体についての妥当な観念を有していない。だからその変状が引き起こしている衝動を自由な意志と思い込んでしまう。意志が何の前提もなく自然発生したかのように思ってしまう。同じことは第一部の付録でも指摘されている。「彼らは自分の意欲および衝動を意識しているが彼らを衝動ないし意欲に駆る原因は知らない」。

國分功一郎.スピノザ 読む人の肖像(岩波新書)(p.162).株式会社岩波書店.

これをフットボール的に捉えると、プレーに於いて何かを意識するというのは、自チーム、相手チーム問わず、何かが自分たちにとっての刺激となって、それによって変化を強要された時になります。もう少しかみ砕くと、試合に向けての事前設定とは異なる状況が発生した時にそれが刺激となって自分たちが変状している時、相手に対して自分たちが変化、反応しなければいけない時に意識が働くということだろうと思います。

逆に言うと、相手が自分たちの事前設定や特徴の中に含まれている場合には変状が発生しない、無意識的にプレーできる状態だと言えそうです。これは岩尾憲の言葉を借りるなら「フットボールが自分たちの掌の上にある状態」とも言えるでしょうか。

相手のプレーを自分たちの事前設定に含むことであったり、自分たちの特徴の中に取り込むことについては、相手のプレーを一回性の出来事としてではなく、数多くの経験や知識を体系化、抽象化した上で目の前の事象に適用してまとめ上げる、つまり予測誤差の発生を抑えることで可能になるだろうと思います。

ここで一つ気を付けなければいけないのは、相手の存在を出来るだけ無視して自分たちの得意パターンの発動条件を設定し、そこからはオートマチックにプレーを実行するという方法でも特定の状況に於いての予測誤差の発生は抑えることが出来るだろうということです。

ただ、そうして無意識のプレーだけを磨いていった場合、意識されるものを無意識の方へ移行させていく作業が少ないので、予測誤差が抑えられる場面とそうでない場面のギャップが大きくなっていく危険性はあると思います。


この「意識」と「無意識」の問題は「権利」(jus)と「法」(lex)の関係性にも繋がっていきます。再び本文を引用します。

「ホッブズが対決した伝統においては、人間は国家社会において、そして市民的社会を介してでなければ、その自然本性の完成態に到達し得ないことが前提されていた。それゆえ、市民的社会が個人に先立つというわけである」[シュトラウス二〇一三、二五〇頁]。国家や社会の定めるlexの中でのみ、個人のjusは実現されうるという「伝統」があり、ホッブズはそれに挑戦した。すなわち、国家や社会のlexに先立つ個人のjusを考えようとした。今もjusに対応するヨーロッパ語の単語に法の意味があるのは、この「伝統」が多少とも残っているからである。
したがって、両者を区別する必要が出てくるのは、lexとjusの間に過不足が生じた時、あるいはその過不足に人々が気付いた時、すなわち、できるはずなのにしていないというカテゴリーが存在し始めた時である。非常に大雑把に言えば、近代においてはその過不足が生じるのであり、ホッブズはそれをjusの過剰(自然権)として発見したのである。

國分功一郎.スピノザ 読む人の肖像(岩波新書)(pp.224-225).株式会社岩波書店.

ここで出てくる「権利」(jus)は「能力」、「法」(lex)は「許可」に言い換えることが出来ます。その人の本質や意識を伴う衝動による能力そのものと、それを発揮することについての許可に差がある時、つまり、自分の能力では出来るのにそれをやることが許されない時に人は法の存在を意識することになります。

これは選手の能力と戦術ということに当てはまります。「やれるけどやらない」という自制を強いられる状況というのは窮屈に感じます。それでもその「法」、戦術を受け入れるのはそれによって利益を得られると感じられるときだろうと思います。

スピノザは「理性による利益の計算を暗黙の内に行いながら生きている」ことを「契約の履行」(ここで言う「契約」は誰もが一度は聞いたことがある「社会契約」)と表現していますが、フットボールにおいても選手が自分の能力の発揮を自制する時には試合に勝利するという利益を得られるという計算をしているだろうと考えられます。

さらに、國分さんはスピノザの捉え方を利益の計算をし続けている、つまり「契約」は反復的であるとしており、フットボールでも選手は目の前の事象と事前設定された戦術を照らし合わせた時に利益が得られると無意識のうちにでも判断した時にはそれに従う、つまり試合の中で反復的に「契約」を履行し続けている、と言えます。逆に、選手がこの戦術では利益が得られないと感じれば、その戦術を遂行し続けることは難しくなるでしょう。


ここからリカルド体制の中での浦和について考えてみます。

フットボール本部を構えて、選手の契約についてもある程度融通が利くようになった2021年以降は全体的に短所が少ない、能力的にバランスが良い選手を積極的に獲得してきたと思います。ただ、ここで気を付けなければならないのは、バランスが良く短所が少ないということと能力が高いということはイコールではないことです。全項目が80点で揃っていることも、30点で揃っていることもバランスが良い訳です。

言葉の選び方に無礼があるのは重々承知した上で少し極端な例を挙げて書き進めますが、同じようにバランスが良い選手を揃えても80点の選手と30点の選手が混在することが起こり得ます。リカルドの特性としてそれぞれの短所を補いながらというよりは誰がどこに入ってもある程度うまくやるという、チーム全体でのシンクロ性を重視していることとバランスが良い選手を揃えることはマッチしていたと思います。

そのため、例えば80点と30点の選手が混在する時には80点の方では無く30点の方に合わせて全体のバランスを崩さないことを出発点としていたのではないかと思います。そうなると、能力の高い選手は全体に合わせるために自身の能力に対して自制をすることも求められていた可能性があります。

長い距離のパス、お互いの選手が密集した狭い局面でのボール扱いについては能力の高い選手は成功する確率が高いのでその選択を許可しても全体のバランスが崩れる可能性は低いですが、能力が低い選手は成功する確率が低いのでその選択を許可しない、リスクヘッジすることで全体のバランスを崩さないようにするというのがリカルドの志向の大枠だと思います。


これが続くと能力が高い選手は設定された戦術を守るのか破るのかという二方向の意志が発生してしまい、そこに対しての不満であったり、より真面目な選手であればそうした葛藤を持つことへの罪悪感のようなものがあったかもしれません。つまり、これを解消するためには、編成の段階でバランスの良い選手というだけでなく、能力の幅もなるべく狭めて選手を集めることが必要になります。さらに言えばより大きな成果を上げるために「法」、戦術の枠組みを広げようとすると、より能力が高い選手を取り揃える必要も出てきます。

ただ、より高い能力を持っていてバランスも整っている選手はそうはいないです。そこで求められるのは、やはり多少能力のバランスが悪い選手も組み込みつつ、それぞれのユニット、グループにおいては能力のばらつきを減らして、全体だけでなくそのユニットやグループ単位でも戦術の枠組み(選手に委ねる割合)を調整するというマネジメントだろうと思います。


そして、2022年にリカルドがようやくここに着手できたのが7月上旬あたりだったのではないかという見立てに対する答え合わせが林舞輝コーチのインタビューにありましたね。

「(岩尾)憲くんをアンカーにしてビルドアップは任せて、右の(酒井)宏樹くん、(ダヴィド)モーベルグには強烈な個とコンビネーションを生かしてもらいましょう、と。それで1度、(7月10日の)FC東京戦で試すことになって、結果として定まったことがありました」
(中略)
「リカルドさんの理想とするサッカーとタイプが異なる選手がいたかもしれませんが、それが逆に武器になるということは、めちゃくちゃ学びになりました。リカルドさんが考えているような、論理的に優位性を得ることだけではなく、論理を外れた理不尽な力を持った選手たちが、最大限の能力を発揮することでチームがうまく回る。だから、配置も大事だけど、組み合わせも大事。英語で言うとケミストリー。2人、3人の関係性の大切さはとても勉強になりましたね」


2021年から積み上げて、さらに自らのやり方を理解している岩尾憲も加入したというのは、リカルドにとって、より自分の強みを発揮できる方向へ持っていけると思っていたのではないでしょうか。しかし、クラブ自体が過渡期ということもあって2022年に向けても選手が大幅に入れ替わったり、開幕時にコロナショックがあったり、その中で思うように結果を得られずにいたので、リカルドとしては、今最低限保てている秩序を一旦脇に置いて別の秩序の作り方に挑戦するほどの気持ちの余裕は持てなかったのだろうと思います。

リカルドは理想はありつつも現実的に何が出来るのかということに主眼を置くタイプだと思っているのですが、そうした現実的な視点を持っていることがかえってチームを停滞から脱出させるための大胆な策を打ちにくくさせていたのかもしれません。


リカルドの退任が決まった後の定例会見で、西野TDとは意見が近く、土田SDとは少し違っていたという言葉がありました。前半戦のうちに停滞を打破できなかった原因がリカルドの現実的な面、全体の秩序を優先した点にあるとすれば、クラブの中には土田SDのようにリカルドとは異なる視点を持った人がいるわけで、多角的に意見を持ち寄って解決策を導けなかったのかという思いが出てきます。

「これを言って問題になるとは思わないが、西野さんと私はかなり近いサッカー観があった。土田さんは少し違う見方があった。いろいろな考え方があっていい。重要なのは全員で忍耐強く、敗戦があった場合も分析しながら進んでいくこと。土田さんはその立場にいてこのような決断を下したが、彼との人間関係は素晴らしいものがある。それぞれの立場で決断している。浦和で仕事をできて誇りに思う。選手やフロント、サポーターには感謝している。彼らが批判する時はチームに問題がある時。その解決がすぐできるもの、簡単にできないものもあった」

しかも、リカルドが浦和の監督に就任した時には、浦和が目指すものとリカルドの志向にズレはあることを認めた上で、そこが両者の伸びしろだとしていたのですから、あの時期こそ、その伸びしろが出るタイミングだったのかもしれません。


ただ、残念ながらそれは出来ませんでした。やはり積極的に挑戦できる、自分たちの持っている安定性から一旦離れるというのは、ある程度結果を出していて失敗しても取り返しがつく状況でないと難しいということだったのだと思います。

しかも、リカルドは大敗した試合こそ選手たちと一緒にスタジアムを一周して批判を浴びることをいとわないくらい責任感のある、実直な人なので、上手くいかない時に開き直ったり、ある意味で「浦和がクラブとして目指すもの」というものを言い訳にしてやり方を変えることが出来なかったのかもしれません。「お前らがこっちのやり方を望んでるならどうなっても知らないけど一回それでやってやらあ!」とはならない人柄だと思います。

さらに、選手の編成について能力的なバランスという点を書きましたが、それだけでなくリカルドと同様に真面目な選手、「浦和を背負う責任」という言葉を正面から受け止めようとする選手が多く、そういった選手ほど出場機会が多かったというのも、全員で真面目に根詰めて考えすぎて泥沼にはまっていってしまったのかもしれません。


これはクラブが自分たちの定めた尺度で監督、コーチ、選手を編成したからこそ得た気付きであり、これこそがフットボール本部を構えたことの成果とも言えます。均質化した集団は共倒れしやすいというのは今回のW杯でのスペインを見ても感じたところです。

大切なのはこの成果から学ぶことですよね。真面目な人材を集めたこと、バランスの良い選手を集めたこと、ということが問題なのではなく、そこに偏ったことが問題な訳です。こうして均された状態から、少しずつ幅を広げていくことが必要なのだろうと思います。真面目なことが悪いわけでは無いですが、肩の力が抜けている選手も必要だったのでしょう。

ただ、幅を広げるということは、意見の異なる人が混在するということになります。「権利と法」の関係性を見てきたように、自分と異なる人の意見、自制することを受け入れることは、そのことに利益があると感じられることが必要です。「利益がある」というのは現状よりも損が発生しないことも含まれるというのが2022年の前半戦での停滞からも言えるでしょう。

こうなってくると、勝利という結果、利益とクラブ内の多様性が鶏と卵の関係性のように思えてきますが、ここで自分と異なる意見を受け入れるための架け橋になれるのが、三年計画の総括でも書いたクラブとしての理念、コンセプトからスタートする共通の価値基準や目標になるのだろうと思います。苦しい状況でこそ、自分たちの目指すものを共有することがバラバラになりそうな人たちを繋ぎとめると僕は思っています。


リカルドのフットボール面での志向だけでなく、現実的で真面目な性格、上手くいかない時ほど自分の信念に照らし合わせて突き詰めて考えようとする在り方は、僕にとっては他人とは思えないような近しいものを感じていました。そして、リカルドのこの結末に至る過程についても、「なんでこうなっちゃったんだろう」というよりは「自分もこんな風に失敗してきたな」という共感のような気持ちの方が強いです。

フットボールの志向が自分のものとこれだけ合致する人が浦和の監督になることはないかもしれない寂しさはありますが、自分なりに勉強して考えながら見てきたフットボール観にまだまだ足りない部分があったという悔しさと気付きを得ることが出来たこの2シーズンはとても有意義でした。いや、有意義にするためにこうして文章を書いているのかもしれません。

浦和にとってだけでなく、僕にとってもこの成果から学ぶことがたくさんあるのです。これに近いテーマで思うことがまた出てくれば改めて文章を書くかもしれません。


結果的に冒頭の読書感想文もどきからはずいぶん逸れましたね。「スピノザー読む人の肖像」はフットボールには全然関係ないですしちょっと難しいですけど、とても面白いのでご興味ありましたら是非読んでみてください。

今回はこの辺で。お付き合いいただきありがとうございました。


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