The Heart has many Doors ——心にはいくつもの
The Heart has many Doors —
I can but knock —
For any sweet “Come in”
Impelled to hark —
Not saddened by repulse,
Repast to me
That somewhere, there exists,
Supremacy —
心にはいくつものドアがあって
私にできるのはノックだけ
どうぞ——
そう、やさしく言ってはもらえないかと
どうしたって、耳をそばだててしまいます
けれど、はねつけらても悲しみはいたしません
最高の存在は——
それがどこかに存在すること
それじたいが、
私の糧なのですから
今回は、翻訳した文章が自分がこの詩を読むときの感覚、リズムと一致するように、言葉をおぎないながら訳してみました。おぎなった箇所はすべて「、」を伴う形で記してあります。
さて、この詩は何について語っているのでしょうか。やはり最後のsupremacyが鍵になりそうです。
至高、主権、最高の位、……なんだか、ぼやんとしてますね。
ぼやんとした至高の存在といえば……神?
たしかに、その解釈もありかもしれない。
けれど、そうなるとはじめの「その心にはいくつものドアがある」ということの意味がよく分からない。さてどうしたものか…
その心。
とりあえず、これを一番近くにある(と思われる)「自分の心」のことだと仮定してみましょう。
そして結論を先に言ってしまうと、spuremacy(最高の存在)は、心が解放された状態の、「最高の自分」のことである、と僕は思っているのです。
誰しも、これをやっている時が一番自分らしいとか、生きてるって感じがすることってありますよね。
それは人によって、コーヒーを飲むことだったり、本を読むことだったり、山に登ることだったりするかもしれない。
あるいは、自分にはそんなものはない、という人もいるかもしれません。
あるいは、好きなことはあるけど、一番とか、そのために生きてるかと言われると…うーん…という人。
僕はけっこう疑い深いので、どちらかといえば後者の部類に入りそうなのですが…
まあそれはともかく、
なんでそれが一番だって、最高だっていえるの?というのは、第三者からすると素朴な疑問ではあります。
人はこの世界の、全てを経験することはできない。だから、疑問が生まれてくる。
小説が好きで、たとえば夏目漱石の小説が好きだとする。
そうか。ところで、君は夏目漱石以外の作家を全部読んだうえでそう言っているのか? そうじゃないなら、君がまだ読んでいないだけで、読めば君が夏目漱石よりも好きになる作家が世界にはいるかもしれないじゃないか。なのに、夏目漱石が一番好きだなんて、どうして言えるのか?
こういう質問をしてくる人は意地悪でしょうか?僕はそう思う一方で、そう訊きたくなる気持ちも分かるのです。質問者は自分が好きなものについても最高だという確信を持てないわけで、それは、やはり辛い状態ではないでしょうか。
僕ならこう答えたいです。
やっぱり漱石が一番だよ。それは僕が強く感じるからそうなのであって、他に理由なんてないし、それでいいんだと思う。でも、確かに君のいう通り、僕は僕にとっての最高の作家に、まだ出会えてないのかもしれない。だから、たまに漱石以外の本をひらくときが、とても楽しみでもあるんだ——と。
自分にとって、最高のなにか。
自分が最高に自由で、幸せを感じる瞬間。
それを見つけられていても、
見つけられていなくても、
そういうものがこの世界のどこかにあると思うことじたいが、
人の生き方をとても前向きにしてくれます。
そういうものと出会うために人は生きている、といってもいいほどに。
だから僕たちはいくつになっても、色々なものや人と出逢い続けましょう。
そうやって、「これがそうなのか?」と心の扉をノックする。それじたいが楽しいことじゃないですか。だからちがっても、悲しむ必要なんてありません。
扉はまだまだ、たくさん、この世界に限りなくあるのですから。
そんなことを考えるきっかけになったのは、友人との京都旅行でした。
3日目の嵐山で「%アラビカ」のコーヒースタンドに立ち寄り、
エスプレッソの扉がひらきかけています。
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