This is my letter to the world——僕の手紙ではない、これは僕たちの——
This is my letter to the world
That never wrote to Me —
The simple News that Nature told —
With tender Majesty
Her Message is committed
To Hands I cannot see —
For love of Her — Sweet —countrymen —
Judge tenderly — of Me
これは世界へ宛てた私の手紙です
私には手紙をくれない世界への
やわらかい尊厳とともに
自然が語った簡素な便りです
そのメッセージを委ねましょう
会うこと叶わぬ人の手に
彼女を愛しているのなら
さあ
親切な同胞のみなさん
やさしく解いてください
私を
この詩はディキンソンが書いたものの中でも、とくに広く知られているのではないでしょうか。1890年に彼女の死後はじめて出版された「Poems」の巻頭にのって以来、その後も詩集が編まれるたびに、この詩がしばしば巻頭詩として掲げられたといいます。
「世界へ宛てた手紙」というのが彼女自身の詩作をさしているのなら、巻頭詩としてこれほどふさわしい詩は、ほかにはないでしょう。
繰り返し読めば読むほど、これはまさしくディキンソンの手紙だ、との思いが深まってきます。僕にそう思われる理由としてはまず、ここには彼女の「自己主張」が全然ないからです。
I, my, Me という単語こそ使われているものの、その内容では、私はただ自然から受け取ったメッセージを手紙(詩)に書いているだけ、とうたっている。
媒介者としての詩人。これは、彼女の詩人観そのものでしょう。
次に、そのメッセージがどこへ委ねられるかというと、
To Hands I cannot see —
私が会うことのできない人の手、というわけです。
つまりはこれが、手紙のディキンソンらしさの第二の理由だと思うのですが、この手紙には「特定の宛先」がありません。
①自己主張のない、(という意味での匿名の)
②宛先もない
手紙。
……。
ディキンソンの詩を読むとしばしば、この詩に限らず、そんな、奇妙な手紙を受け取ってしまった気持ちになります。
困惑と興奮の入り混じった奇妙な感覚につき動かされて、気付けばこんな文章を綴っているのです。
生まれた場所も時代もちがう。ディキンソンにとっての僕は、まさにこの詩の言葉でいう「会うことのできない人」でしょう。
そして僕もまた、この文で、
見知らぬ誰かに、
何かを伝えられたらいいな、と。
そんな風に思っているのです。
彼女の書いた、手紙のように。
『THE COMPLETE POEMS OF EMILY DICKINSON』
THOMAS H . JOHNSON, EDITOR
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