Between My Country — and the Others — あの夏へつづく散歩
懐かしいノートをひらくと、波の音がした。
Between My Country — and the Others —
There is a Sea —
But Flowers — negotiate between us —
As Ministry —
私と異国の間には
海が横たわっている ——
けれど花が牧師として
二人の仲をとり持つ
なんだか最近、世界との仲がよくない気がします。と、いきなりこんなことを言っても伝わりませんよね。
最近、生活の中でふと、こんなことしてていいのかなと思ったり、遊びに出かけてもあまり楽しくなかったり。そういうことがあるということです。
世界のせいにするつもりはありません。
しかし自らに責任を帰そうと思っても、世界との関係において、いまの自分のどこがよくないのかというと、いまいち分からない。相手に訊ねてみるわけにもいきません。
空元気で乗り越えようとするのも、それはなんだか違う気がして、あれこれ思い悩んだ結果、結局出来ることはといえば、いま自分にできることをコツコツやっていくことだけだな、というたいへん地味な結論に流れ着きました。
というわけで、今回ディキンソンの詩集から取り上げるのは、こちら↑の一編。
じつは僕がこの詩を訳すのは、今回が初めてではありません。ついこの前、ノートをパラパラと見返していたときに、この詩を見つけたのです。
おそらく書き写したのはちょうど一年ほど前でしょう。(そもそも翻訳や、 noteを始めたのがそのくらいなので…。)
いま再びページをひらくと、当時の僕の訳が残っています。↓
私の国と異国の間には
海が横たわっている ——
けれど花は牧師として
二人の仲をとり持つ
そして改めて、今回の訳はこちら。↓
私と異国の間には
海が横たわっている ——
けれど花が牧師として
二人の仲をとり持つ
さて、いかがでしょうか。
(たいして違わないんじゃ…)
そんな囁きがまた、海からきこえてくるようです。
ならば今回は、あえてその些細なちがいを紐解き、波の音への返歌といたしましょう。それは同時に、一年前の僕から今の僕への変化を、ことばでたどる営みにもなるはずです。
さて、改めて指摘するまでもないかもしれませんが、訳には二箇所、違いがあります。
①「私の国と異国」→「私と異国」
②「花は」→「花が」
(一年前→今)
順番に見ていきましょう。まずは①。もとの英語は
My Country — and the Others —
これを直訳すれば、私の国と他の国々、となります。
じっさい、一年前はそうしていますね。
では、なぜ今は変えたのか。
ザアアアアアッ…
ズサアアアア
ザバアアア…
同じ波の音でも、表記の仕方がいろいろあり得るように、今、僕の耳には
Between My Country — and the Others —
この旋律が、
私と異国の間には
このように聞こえる、というのがまず一点。
それから、「最近世界との仲が悪い」と感じていて、それを世界のせいではなく、世界と関係を結ぶ「私」の側の責任として引き受けたい、という僕の気持ち。
さらに、
ここでは私も他人も直接出てきてはいないものの、詩のあとの部分では、
between 「us」
と、はっきりと「私たち」が現れます。
するとやはり、この詩は自然と自然、あるいは国と国、というように、人間から切り離された、ただの風景を描いた詩ではないわけです。
My country
いまこそこの単語の並びを純粋に解し、国とその所有者である私は密接な関係にある、言い換えれば、私の国があるところ——そこには私がいる、とまでいえなくはない。いや、この詩は実際に、そう言っているのではないか。
以上の三点を考慮し、「私と異国」。
ここで「私」という「人」を現しておくのが良いだろうと思い、そのようにしました。
続いて、②。
But Flowers — negotiate between us —
「花は」とするか、「花が」とするか。
ここで日本語の文法における「は」と「が」の違いは……などと、くだくだ言うつもりはありません。
波のしぶきに目を奪われるばかりでなく、それ自体が海という大きな自然の一部である波の、全体のうねりを、もっと感じてみましょう。
そもそもこの詩は何をうたっているのでしょうか。
私と異国の間には「海」がある。
それは両者を隔てるものがあるということです。
では遠く隔たった場所や人と、ぼくたちはどうすれば繋がれるのか。
相手と接するとき、相手の気持ちがわかる、と感じるのは共感です。
隔てられたものが、隔てられたままひとつになる。
このとき、なぜ相手の気持ちがわかるのかといえば、それは、自分がかつて同じ気持ちになったことがあるから…
これこそがFlowers、
つまり「花」、ではないでしょうか。
花を美しいと思うとき、
人は花を美しいと思う自分の心にもまた、出会っている。
そして、その自分の心にもまた花が……
だとすれば逆に、
人は心に咲いた花を見失ってしまったら、
外の花を見ても、
心が動かなくなってしまうのかもしれない。
同じ景色やシーンを見ても、
感動したり、そうじゃなかったりする。
あれは、
そういうことなのかもしれません。
花は、陸に咲いている。
異国とは、海で隔てられている。
ならば先ずは、
自分の国を訪ねなさい。
土地を歩いて、
そこにどんな花が咲いているのか見てみなさい。
波打ちぎわで足を止める。
一瞬、
波の音が止んで、
そんな風にささやく彼女の声が、
聞こえたような気がしました。
花だ。
花「が」、ぼくたちと世界との仲をとりもってくれるんだ。
そして、だからこそ、ぼくたちは自分の国に咲いている花に、気がつかなくちゃいけない。花を見ようとしない人に、花「は」はたらきかけたりしないから。
「は」だと、花が主体的に、それを人の態度やふるまいいかんに関わらず、
自然にやってくれる、という感じがしてしまう。
「が」とすることで、花が大切なんだ、という内容と同じかあるいはそれ以上に、そのことに気付いた私の心の、何かふっきれたような清々しい感じが、より強く滲み出てくる。
とある夏の海への長い散歩の帰り道で、
ひんやりとした冷房の風を浴びながら、
私は後者を選んでいた。
『THE COMPLETE POEMS OF EMILY DICKINSON』
THOMAS H . JOHNSON, EDITOR
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