……わたしの中の微分を(下巻)
私はこの「ものみな」という言い回しをずっと「ものには」というふうに聞こえていた。「ものみな」というのはありとあらゆるもの、全ての事象という意味があるようなので「ものには」と聞き違えたとしてあんまり大差がないように私は思えてしまう。
そういうところが私の軽率なところなのではあるのですが、なんというのでしょう、言葉の重みをわかってない、詩情のへったくれもない、とでも言われるのでしょうが。
全ての事象に積分があるというのは際限なく無限にある事象を掛け合わせていくことで出来事が際限なく起きることを指すのでしょうか、
私は前回に私の微分について考えつつ、物を書くときに情緒を破壊してから始めて字が進むということを記しました、
ここでいう字が進むというのは推進力でもあります。速度はみずからの進捗に対してのノリやコンディション、あるいはメンタルの気質、あるいは気圧に左右はされますが、マニュアル車に近いのです、要するに。微分と積分はギアをローに入れたりトップに入れたり、あとは情緒を破壊するというのは鈍感になっている意識を一度、いや一度ばかりでなく反復して瓦解しないと行けない、車で言うところのエンジン始動による蒸し運転、静寂の死です。私に物を書く上で必要なものは音であり、静寂は敵なのです。
私を割り算していくことは時に何で割るのか、何で割られるのか、傷で割るのか、ナタで割るのか、思考で割るのか、理念で割るのか、これまで私は、ヒューマニズムで割る、性的嫌悪で割る、整合性で割る、を試みたことがある。
私は掛け算をしていく時に絶え間ない行間の奥底から増殖する嗚咽と意味が湧き上がるのを感じる、思いもよらない掛け合わせが不気味な信号を与える、そこに飛躍があり、破綻があり、無意味もある、すべてがあり、そこに全てが関係している全能感を覚える、
マニュアル車で例を挙げた割にはそんなにうまい例えではないのですが、私は物を書くだけではなく物を見つめるときも、物に触れる時と、いえ、ものだけではありません、誰かと知り合う、誰かを思う、それでさえ蒸し運転とギアの変速による微分積分をしてしまってます。まあ要するに気まぐれってことなんですけど。