見たいもの
いつもは観光客で賑わう道を小学生が走ったり、中学生が群れを成して向かってくるのを見ていると、なんだか元気が出る。
登校中の子どもたちとすれ違いながら、今日は仕事をしに横浜・みなとみらいへ。
仕事と言ってもフリーランスなので通勤ではなくて、溜まっている事務作業をやるのだけれど。
みなとみらいは2年前まで通勤していた街なので、当時の自分と今の自分の視点とを同じ景色の中に見えるところがいつ来てもおもしろい。
毎朝6時半にここを歩いて、近くのブックカフェで過ごしてから9時に出勤していたと思うなんだか凄い。
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今朝はというと、起きたのが6時半。
一時間後に家を出て、子どもたちの群れに元気をもらいながら電車に乗った。
通勤を辞めてからは電車に乗るのが新鮮で、まず目に入ってくるのが広告。
いつも何気なく目にしていたけれど、受動的に情報を受け取ってしまう状況が初めはこわいと思った。
狭い箱の中で繰り返し流れる映像や広告は、意識して見ているつもりがなくても、むしろ意識して見ているつもりでないからこそ知らず知らずに誘導されているのかもれない。
同じことを、テレビを見なくなった時にも感じた。
その頃から「(こちらが)見せたいもの」を見せるのが今の広告やSNSだとしたら、「(相手が)見たいもの」に委ねられるようなものをつくりたいと思うようになった。
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「見たいもの」には二つあると思っていて、一つは「見たいと思っているもの」。
意識的に自分にはこれが合うとか好きだと自覚していて、選択肢があったらつい選んでしまうようなもの。
もう一つは「見たいとは知らなかったもの」。
あれ?こんなものも好きだったんだ。とか、よく分からないけどなんかいいな。とか、知らなかったものに出逢うきっかけともいえる。
いつもとは違う道で素敵なお店を見つけたとか、綺麗な景色を見たとか、寄り道の中で自分だけの"いい"を見つけた時がそれに似ていると思う。
操作や誘導ではなくて、"いい"に気づくきっかけや寄り添い。わたしはそれをしたい。
外側の価値ではなく、内側の価値に気づくことが本当の価値だと思うから。
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「見たいもの」に話を戻すと、広告にしても自分の意思にしても目的や意味がありすぎて"寄り道"が減っているんじゃないかと思う。
通勤していた頃のわたしは、ルーティーンのように日々をこなしながら安定した生活を守っていたけれど、ずいぶん視野が狭かったなと思う。
フリーになってみて、ルーティーン頼りになっていただけで自分のリズムを自分で作れていなかったことや、労働と仕事の違いとか、何にも知らなかったことを知った。
まだ知らなかったことを知っただけで、知らないことだらけの日々だけれど、そんなことを当時通っていた道中で思った。
次ここに来る時はどんな景色が見えるだろう。
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