【つの版】倭の五王への道08・百済建国
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
ヤマトタケルは後世の物語としても、卑彌呼の死と臺與の即位から120年が経過し、前方後円墳を王墓とするヤマト王権の勢力は日本列島各地に広がっていきました。北部九州、出雲、吉備、丹波、北陸、濃尾、関東などに地域勢力が存在し、それらの盟主としてヤマトの大王を戴く、という構図です。それぞれは婚姻や祭儀、交易などで緩く繋がっていました。
ただし外戚などの影響でヤマトの王権も変動を免れず、4世紀中頃には陵墓が北の佐紀に動きました。ヤマトから外れたため佐紀王権と呼ぶべきかも知れませんが、彼らはその後もヤマトと名乗り、海外からは倭国・倭王と呼ばれています。この頃、海外では何が起こっていたのでしょうか。
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五胡十六国
西暦300年に始まる八王の乱、続く永嘉の乱(というのは晋の言い分で、漢は晋漢革命と呼ぶでしょう)で晋(西晋)は滅び、残党が江南に逃れて東晋を建国します。4世紀のチャイナは非漢人や軍閥がぶつかり合い、盗賊が跳梁跋扈する大乱世に突入しました。これを「五胡十六国時代」と言います。五胡とは匈奴・鮮卑・羌と、匈奴に服属していた小種族の羯、羌に近い種族の氐です。文化程度は秦漢魏晋の文化を受け継ぐ漢人貴族より低く、人口も少数ですが、独自の文化と言語を持っていました。
ただ十六国には漢人が建てた国もあり、華北を統一するほどの帝国も地方政権も雑に十六国に含めていますし、支配層が漢でも胡でも国内では漢と胡が雑居・通婚していました。五胡の筆頭の匈奴が「漢」を名乗り、漢姓を劉氏としたぐらいです。しかし漢を重視するか胡を重んじるかは国や部族によってグラデーションがあり、揺れ動きつつ融合へ向かう模索の時代であったとも言えるでしょう。その巨大な帰結が北魏や隋唐です。
西晋を滅ぼした匈奴の漢国はまもなく内部分裂を起こし、西に劉氏の漢改め前趙が、東に羯族の石勒による後趙が割拠します。329年、後趙は前趙を滅ぼして華北をほぼ統一しますが、江南には東晋、巴蜀・漢中には成漢が割拠していました。さらに遼寧には鮮卑慕容部が、内蒙には鮮卑拓跋部の代国や匈奴が、河西回廊には前涼国が興り、後趙はこれらの国々と戦うことになります。333年に皇帝石勒が崩御すると太子の石弘が即位しますが、まもなく石勒の従弟の石虎が帝位を簒奪しました。彼の在位は349年までです。
後趙の最大の敵は南の東晋、次いで東北の鮮卑慕容部でした。慕容部は司馬懿の公孫淵討伐に先祖が援軍として駆けつけたといい、棘城(錦州市義県)付近に北辺を護る魏晋の同盟部族として居住を許可されました。しかし次第に力をつけ、307年に族長の慕容廆は鮮卑大単于を称します。彼は遼西・遼東一帯を統治して各地から難民を受け入れ、西晋・東晋からも地位を承認されて半独立国を形成します。遼東公孫氏と似ていますが、朝鮮半島には勢力が及んでいないため、より西に寄っています。
後趙からすれば東晋に臣属し背後を脅かす慕容部は危険でしたから、しばしばこれを攻めて脅かし、周辺部族(宇文部・段部)や高句麗を唆して牽制しました。この燕国と高句麗の争いが、百済を成立させることになります。
百済の出現
では、百済について述べましょう。これはかつて帯方郡が存在した領域、現在のソウル付近に現れ、馬韓(韓国西部一帯)を支配した国です。
日本漢字音では呉音で「ひゃくさい」、漢音で「はくせい」としか読めませんが、なぜか「くたら(のち「くだら」)」と訓じます。語源は不明ですが百済側による自称と思われます。韓国漢字音ではペクチェです。なお「くだらない」は百済とは無関係で、上方(京阪神)から江戸や各地への「下りもの」でないものを「つまらないもの」として呼んだに過ぎません。
『三国志』東夷伝には馬韓54国の1つとして「伯済国」があり、しばしばこの国が馬韓を統一して成立したとされます。また1145年に成立した『三国史記』百済本紀では「高句麗の始祖である朱蒙の子・温祚が漢の鴻嘉3年(紀元前18年)に建国した」としますが、漢魏晋の史料に全く見えないので後世の捏造です。伯済国には王もおらず、馬韓には辰韓の利益代表の辰王はいましたが、馬韓の王は(箕子朝鮮の末裔と称する者はともかく)いませんでした。百済の名がチャイナの史料に現れるのは4世紀中頃からです。
西暦313年に楽浪郡と帯方郡を接収した高句麗は、遼西の鮮卑慕容部と遼東を巡って争いました。321年、慕容廆は東晋に使者を派遣して使持節・都督幽平二州東夷諸軍事・車騎将軍・平州牧に任じられ、遼東郡公に封じられます。333年に慕容廆が逝去すると、子の慕容皝が後を継ぎ、337年には燕王を号します。彼は後趙と結んで段部を滅ぼし、続く後趙による陸海両路の大規模な侵攻も激戦の末に退けました。
342年、燕は大軍を派遣して高句麗を討伐し、丸都城(吉林省集安)を徹底的に破壊・掠奪しました。高句麗王の釗(斯由)は逃げて平壌付近に潜み、弟を派遣して燕に朝貢しますが、燕は345年10月に再び高句麗を攻め、守備隊を置きました。以後数十年、高句麗は燕に服属します。
『晋書』慕容皝載記によれば、このころ燕の首都龍城(朝陽市)周辺には高句麗や百済、宇文部や段部らの虜囚が多数居住していました。これは時系列上でチャイナの史書に百済の名が現れる最初です。記室参軍の封裕という人が慕容皝を諌めて「彼らを西の辺境へ遷すべきです」と進言しています。
句麗、百濟及宇文、段部之人、皆兵勢所徙、非如中國慕義而至、咸有思歸之心。今戸垂十萬、狹湊都城、恐方將為國家深害、宜分其兄弟宗屬、徙于西境諸城、撫之以恩、檢之以法、使不得散在居人、知國之虛實。
ということは、燕は百済の地まで攻め寄せたのでしょうか。そもそも百済はどこから出てきたのでしょうか。
『晋書』には、百済についての建国伝説は書かれていません。5世紀末に編纂された『宋書』には、こうあります。
百濟國、本與高驪倶在遼東之東千餘里。其後高驪略有遼東、百濟略有遼西。百濟所治、謂之晉平郡晉平縣。:百済国はもと高驪(高句麗)と共に遼東の東千余里のところに在った。高句麗が遼東を占領すると、百済は遼西を占領した。百済の治めるところは、いわゆる「晋平郡晋平県」である。
遼東(遼陽市)の東千余里というと、1里434mならば434kmで北朝鮮の両江道、白頭山の南麓ですが、例の5倍誇張として200里(86.8km)ならば遼寧省本溪市で、奥地の桓仁満族自治県には高句麗の最初の都である紇升骨城(卒本城、五女山城)があります。そこに百済は高句麗と共にいたわけです。
高句麗が遼東を占領した時というと、西暦385年の一時期か西暦404年のことになりますが、既に百済は朝鮮半島西部(ソウル付近)に存在し、高句麗と激しく争っていました。百済が遼西に進出するには渤海を渡るか、高句麗領内を通るしかありませんが、そんな歴史的事実はありません。唐の『通典』では「いま柳城・北平の間(朝陽市から北京の間)」としますが、そも晋がそんな名の郡県を遼西に置いた事実もありません。燕によって遼西に遷された百済の捕虜たちが反乱して自立した形跡もないのです。
南朝梁の『職貢図』ではこうです。
百済舊来夷馬韓之属。晋末、駒麗略有遼東、楽浪、亦有遼西、晋平県。自晋已来常修蕃貢。:百済は、もと来(東)夷馬韓の属である。晋末、駒麗(高句麗)が遼東・楽浪を略有すると、また遼西、晋平県があった。晋以来、常に蕃貢を修める。
これではわかりにくいですが、629年編纂の『梁書』ではこうです。
百濟者、其先東夷有三韓國、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。弁韓、辰韓各十二國、馬韓有五十四國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戸、百濟即其一也。後漸強大、兼諸小國。其國本與句驪在遼東之東、晉世句驪既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡。
百済は、そのむかし東夷に三韓国があり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓といった。弁韓、辰韓は各十二国、馬韓は五十四国あり。大国は万余家、小国は数千家、総計十余万戸で、百済は即ちその一国である。後に次第に強大となり、諸小国を併呑した。その国は、もともと高句麗とともに遼東の東に在ったが、晋代に高句麗が遼東を略有すると、百済もまた遼西・晋平二郡を占拠して、自ら百済郡を置いた。
馬韓の百済(伯済)国が諸国を併呑して建国したというのですが、ここにも晋平郡が出て来るばかりか、遼西郡を併合して百済郡を置いたとします。
夫余と百済
『魏書(北魏→東魏の史書)』と『周書(北周の歴史書)』はこうです。
百濟國、其先出自夫餘。:百済国、その先は夫余より出る。
臣與高句麗源出夫餘(臣=北魏に遣使した百済王余慶の自称)。
百濟者、其先蓋馬韓之屬國、夫餘之別種。有仇台者、始國於帶方。:百済のもとはおそらく馬韓の属国で、夫余の別種である。仇台という者がおり、帯方に於いて国を始めた。
夫余は遼寧省撫順市(玄菟郡)の北の鉄嶺市にあたります。隣国の高句麗とは同種族でしたが対立し、漢魏晋や遼東公孫氏と友好関係を結び朝貢・交易していました。魏志東夷伝には「玄菟郡から北に千里(434km)、方二千里(868km)」とありますが、鵜呑みにすると満洲ほぼ全土になりますから、5倍誇張として撫順から200里(86.8km)北の方400里(173.6km)、鉄嶺市開原を中心として約3万km2の領土に8万戸(40万人)が住んでいました。
そして『隋書』ではこうです。
百濟之先、出自高麗國。其國王有一侍婢、忽懷孕。王欲殺之。婢云「有物状如鶏子、來感於我、故有娠也。」王捨之。後遂生一男、棄之廁溷、久而不死、以為神、命養之、名曰東明。及長、高麗王忌之、東明懼、逃至淹水、夫餘人共奉之。東明之後、有仇台者、篤於仁信、始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之、漸以昌盛、為東夷強國。初以百家濟海、因號百濟。歴十餘代、代臣中國、前史載之詳矣。
百済の先は高麗国より出る。その国王に一人の侍婢がおり、突然懐妊した。王はこれを殺そうとした。婢が言うには「鶏子(卵)のような物があり、来たりて私に感じ、故に妊娠したのです」。王はこれ(卵)を捨てた。のち遂に一人の男児が生まれた。これを厠に棄てたが、久しくしても死なないので神(ふしぎ)だとして、彼の養育を命じた。名を東明という。成長すると高麗王は彼を忌み嫌い、東明は懼れ、逃げて淹水に至り、夫余人は彼を共奉した。東明の後裔に仇台という者がおり、仁信に篤く、帯方の故地に国を立てた。漢の遼東太守公孫度が娘を彼の妻にしたので、暫次隆盛となり、東夷の強国となった。初めに百家で海を済(渡)ったことから百済を号した。十余代を経て、中国に臣従した。前史に詳細が記載されている。
このうち前半の東明は高句麗の始祖で『好太王碑文』に見える鄒牟、『魏書(北魏書)』にいう朱蒙ですが、もとは漢の『論衡』にも見える夫余の始祖伝説を借りたものです(かつ、夫余から出て高句麗を建国したのではなく、高句麗から夫余へ入って王になったと改変し、立場を逆転させています)。2世紀後半に鮮卑による帝国を築いた檀石槐や、モンゴル、満洲、チャイナの殷や徐にも似たような始祖伝説があります。
漢末には尉仇台という夫余王がおり、遼東太守公孫度の娘を娶って同盟しています。ただ「帯方の故地(ソウル付近)」に彼が国を建てた様子はなく、帯方郡が設置されたのは公孫度の子の代ですし、『三国志』に夫余王族が馬韓で王になったとは全く書かれていません。つまりこれらの史書に語られる建国伝説は不正確で、事実ではありません。(そう信じられてはいたようで、『隋書』によると7世紀の百済では仇台を国祖として祀っていました)
また『周書』によれば、百済王の姓は扶余氏(余氏)で自ら「於羅瑕」と称しましたが、民は「鞬吉支」と呼び、共に夏言(中国語)で「王」を意味するといいます。王と民で言語が異なるのです。『魏書』『梁書』に「百済の言語や服装は高麗と同じ」とし、『隋書』に「百済の先は高麗から出た。新羅人、高麗人、倭人が混在しており、また中国人もいる」とあります。『新撰姓氏録』によると、倭国に渡った百済王族は始祖を都慕王としています。これは高句麗の始祖とされる朱蒙、好太王碑文にいう鄒牟のことです。
つまり百済は、王族や貴族など支配層は言語や文化が外来の夫余・高句麗系で、被支配層の多数派は韓人や漢人や倭人という、多言語・多種族混成国家だったのです。匈奴や鮮卑が漢人の上に君臨する当時の華北と大して変わりません。チャイナはその後も女真族・満洲族やモンゴル人に支配されることになりましたし、イングランド王国もアングロサクソンやデーン人、ノルマン人、フランス人、ウェールズ人、スコットランド人など多くの外国人を王として戴いています。近代のギリシア王室はデンマーク系ドイツ人でした。
高句麗と夫余・沃沮・東濊が同じ種族(濊貊)に属するのは、チャイナの史書にも風俗や言語が同じとあり、よく知られた事実です。夫余の末裔は6世紀に満洲北部へ逃れ豆莫婁という国を建てますが、その言語は契丹や失韋と通じたとあります。契丹は鮮卑の子孫で、鮮卑は秦代に東胡といい、匈奴に敗れて鮮卑と烏桓に別れました。また失韋の一派に蒙兀室韋があり、後のモンゴルの先祖です。こう見ると、夫余・高句麗・濊貊で話されていたのは、後のモンゴル語の遠い親戚だったかも知れません。少なくとも挹婁とは言語が通じなかったといいますから、粛慎・挹婁・靺鞨・女真・満洲と繋がる南部ツングース語群とは別系統で、倭語でも韓語でもありません。ただ夫余や高句麗は、生活形態からして鮮卑や契丹めいた「遊牧騎馬民族」ではなく、どちらかというと山林原野の狩猟農耕民です。
濊は穢ではなく、さんずいがつきます。漢人が卑字をあてたのでしょうが、魏志東夷伝を読む限りではそれなりに文明化しており、倭人の末裔がどうこう言えた義理はありません(豚と同居し小便で顔を洗うとして不潔がられたのは濊ではなく挹婁です)。貊は豹で、豹の毛皮をチャイナに輸出していたようです。朝鮮とは平壌(楽浪朝鮮)にいた濊貊の同族と思われますが、早くに漢化して部族集団としては消えました。楽浪郡の戸籍に登録された「漢人」には、漢化した朝鮮や濊貊、漢人との混血者も多くいたことでしょう。先祖の起源はどうあれ、漢語を話してチャイナの役所に登録されれば漢人になります。漢には匈奴王族の子孫も代々仕えていました。
では、外来の高句麗人がなぜ帯方郡の故地(ソウル)や馬韓(韓国西部)に新たな国を建て、文化が同じで本国である高句麗と対立していたのでしょうか。上述のように、高句麗は342年から345年にかけて燕により大打撃を受け、滅亡の危機に瀕していました。そこで旧帯方郡に駐屯していた守備隊が高句麗を見限り住民ごと独立した(燕の側についた)と考えるのが最も自然です。おそらく燕が帯方郡付近まで攻め込み、燕の属国として独立させたのでしょう。高句麗と対立していた夫余を先祖としたのも、本国からの決別を意味します。燕に従わなかった百済人は虜囚となったのです。
実際、『三国史記』では西暦345/346年頃に即位した近肖古王の時代から、チャイナの史書で史実を追うことができます。彼は『晋書』では百済王余句と記され、西暦372年に初めて東晋に朝貢し、鎮東将軍・領楽浪太守に任じられています。余句とは姓が余、名が句ですが、これはもと姓が扶余、名が肖古(肖句)と言ったのを漢名らしく丸めて余句としたものです。また領とは「実際には統治していないが名目だけ与える」という意味で、百済が楽浪郡(平壌)までは支配していなかったことを示します。
『日本書紀』では肖古王・速古王、『古事記』では照古王とします。『三国史記』で近肖古王とするのは、西暦166年から214年まで在位して遼東王公孫度の娘を娶った肖古王(つまり肖古1世)がいたとするからですが、これは百済の成立年代を古くするため余句の即位年を180年(干支三巡ぶん)遡らせて作った幻影です。『三国史記』に記す温祚から契王に至る12代365年の王とその事績は、後から増やして作り出したものに過ぎません。日本書紀でも古事記でも、聖書でもシュメール王名表でもローマ建国史でもブリタニア列王史でも、この手の年代操作や系譜捏造はよくやっています。朝鮮・韓国史に限らず世界的によくあることです。
また高句麗領内の平壌では燕の敵国である華北の後趙の元号を用いており、建武三年(西暦343年)、建武十六年(350年)と書かれた磚(煉瓦)が出土していますが、ソウル付近では「建元三年」と書かれた磚が出土しました。これは燕が用いていた東晋の元号で西暦345年にあたり(東晋本土では既に永和と改元していますが)、帯方郡の故地であるこの地域が高句麗から独立していた(燕・東晋についてその暦を用いた、いわゆる「正朔を奉じた」、宗主権を認めた)ことを意味します。東晋はまだ山東半島にさえ勢力を及ぼせていませんから、百済は燕の属国として誕生したのです。ただし燕国では345年に東晋の元号の使用を廃止し、建元3年を「燕王12年」としています。
1084年に宋で編纂された『資治通鑑』巻97によると、東晋の永和2年(西暦346年)に燕が夫余を襲撃し、その王の玄と部落5万余人を捕虜としました。慕容皝は玄を鎮東将軍とし、娘を妻として与えたといいます。また夫余は百済に侵略されて弱体化し、西に遷って燕の近くにいたともいいます。しかしこの話は資治通鑑以外で確認できません。夫余は494年に勿吉(靺鞨)によって滅ぼされ、残党は前述の豆莫婁となりました。
じゃあ遼西の百済は?晋平郡は?となると、それを伝える史書が『宋書』『梁書』と百済から遠い南朝でのものしかなく、実際に遼西を領有していた燕や北魏(北朝)系の史書にないことから、北朝・高句麗と対立関係にある百済や南朝が北魏牽制のためにデマを流したものと思われます。あるいは遼西の燕国によって建てられた事を隠蔽するため、百済が「実は我々は遼西を領有していたのです」と東晋に大嘘を吐いたのかも知れません。しかしあまりに無理のある話だったため、当の朝鮮側史料である1145年編纂の『三国史記』にも、13世紀末の野史『三国遺事』にすら、百済が遼西を領有したという話は完全に無視されています。
『南斉書』に「魏虜(北魏)が百済を攻めたが敗北した」とあるのは、百済が遼西に領土を持っていたことを意味しません。5世紀末に北魏と結んだ高句麗が百済を攻めて勝てなかったのを、百済が大仰に言い立てただけです。南斉側では高句麗も百済も味方につけておきたい同盟国ですから、高句麗ではなく北魏のせいにしておけば角が立ちません。お察し下さい。
ごちゃごちゃしていますが、要は百済が345年頃、高句麗から離反して建国されたわけです。東夷や濊貊については先にやっておけばよかったですね。詳しくは岡田英弘氏の『倭国』を読んで下さい。東アジア諸国の歴史は各国の民族主義が絡んで胡散臭い話ばかりですが、これは簡潔で平易です。
◆Get Your◆
◆Fight On◆
さて、百済は建国の経緯上、北に高句麗という大敵を常に抱えることになりました。被支配層には迷惑な話ですが、支配層からすれば臣民が高句麗を選べば自分たちが死にますから、必死に反高句麗のプロパガンダを内外へ喧伝し続け、自らの政権の正統性と権威をアピールしなければなりません。そして高句麗に対抗するため、東晋や倭国と手を結ぶことになるのです。
【続く】
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