【つの版】ウマと人類史EX31:保元之乱
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
伊勢平氏の正盛・忠盛は白河院・鳥羽院に取り立てられて急激に出世し、西国の受領を歴任して南宋との交易路を掌握、圧倒的な財力を獲得します。これに対し河内源氏の為義は摂関家を頼りますが、摂関家では忠通と頼長の兄弟対立が始まり、保元の乱の火種となりました。
◆鎮西◆
◆八郎◆
父子対立
仁平3年(1153年)に平忠盛が逝去し、子の清盛が跡を継ぎます。彼は時に36歳、7年前から正四位下・安芸守に任官されて瀬戸内海航路を掌握しており、父から莫大な富と権勢、多数の人脈を引き継ぎました。清盛の継母・藤原宗子は夫が逝去すると出家し、伊勢平氏の居館である京都東山の六波羅館の池殿に住まい、池禅尼と呼ばれるようになります。彼女は鳥羽院の皇后・美福門院(得子)と寵臣・藤原家成の従妹にあたり、崇徳上皇の皇子・重仁親王の乳母でもありました。
源為義の長男である義朝は清盛より5歳年下で、正妻は熱田大宮司・藤原季範の娘である由良御前(頼朝の母)です。季範は大宮司職を息子に譲り、京都で暮らしていましたが、従姉妹の悦子は白河院の近臣だった藤原顕隆の妻で鳥羽院の乳母にあたり、中央政界と繋がりがある人物でした(鳥羽院が御所とした洛南の鳥羽殿も悦子の父・季綱が白河院に献上したものです)。義朝はこの人脈によって鳥羽院やその近臣と近づき、仁平3年(1153年)3月には従五位下・下野守に任官されます。
義親が対馬守を罷免されて以来、河内源氏から受領(国司)が出るのは50年ぶりという快挙でしたが、検非違使どまりの父・為義は義朝と仲が悪く、面白くありません。かつ義朝が鳥羽院と接近することは、為義が頼っていた摂関家にも面白くありません。そこで為義は次男の義賢を東国に派遣して義朝を牽制させました。義賢は上野国多胡荘に入った後、武蔵国の豪族秩父重隆の娘婿となり、比企郡大蔵に館を構えます。
義朝の長男義平は相模国鎌倉にあって所領を守っており、父ともども義賢と対立しました。また鳥羽院の近臣・藤原信頼は久安6年(1150年)より武蔵守で、義朝・義平とその一派を支援していました。
この頃、為義の8男・為朝が鎮西(九州)に追放されています。彼は気性が荒く剛勇無双でしたが、あまりに乱暴者だったため父から勘当されたのです。10代で豊後国に渡った為朝は、肥後国阿蘇郡の豪族・平忠国(ないし薩摩国阿多郡の平忠景)の娘婿となり、勝手に「鎮西総追捕使」を名乗って暴れ出します。その暴れぶりはかつての義親にも勝り、3年で鎮西の豪族たちを従えてしまいました。
為朝には出頭命令が出されますが従わず、父・為義は責任問題を問われ、久寿元年(1154年)11月に官位を解任されます。為朝はさすがに反省し、家来28騎を率いて上洛すると為義のもとに戻りました。
保元之乱
翌久寿2年(1155年)7月、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御します。子がなかったため皇位継承に関する会議が開かれ、崇徳院(新院)の子である15歳の重仁親王が有力視されますが、藤原忠通は政敵の頼長を失脚させるため「新院と頼長が帝を呪殺した」と噂を流し、鳥羽院の孫で美福門院の養子である12歳の守仁親王(孫王)を推挙します。しかし孫王の父・雅仁親王は29歳で健在であり、「実父を差し置いてその子が天子になるのはいかがなものか」として、雅仁が擁立されました。これが後白河天皇です。崇徳院と頼長の派閥は失脚し、鳥羽院と近臣による院政体制が続行されました。
同年8月、義平が大蔵館を襲撃し、義賢と重隆を討ち取りました(大蔵合戦)。義賢の次男・駒王丸はまだ2歳でしたが、重隆の甥の畠山重能は彼を殺すことをためらい、斉藤実盛に託して信濃国木曽へ送らせました。のちの木曽義仲です。武蔵守・信頼は鳥羽院の近臣ですから「私戦」として問題とせず、義平にも義朝にもお咎めはありません。義賢の弟で養子となっていた頼賢は大いに怒り、報復として信濃の鳥羽院領を侵犯したため、鳥羽院は怒って義朝に頼賢討伐の院宣を出しています。
しかし、翌保元元年(1156年)5月に鳥羽院が病に倒れます。鳥羽院派は崇徳院と頼長一派の報復を恐れ、平清盛・源義朝ら率いる武士団を呼び集めて院の御所を警固させました。同年7月2日に鳥羽院が崩御すると、近臣らは「上皇・左府(頼長)同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」と風聞を流し、後白河天皇の勅命を盾として崇徳派の逮捕粛清に乗り出します。
崇徳院は重仁親王を置いたまま鳥羽殿から逃亡し、洛東白河にいた姉・統子内親王の御所に駆け込みます。南の宇治にいた頼長も白河北殿に移り、側近や家来を集めて武装蜂起を計画します。源為義は頼長の父・忠実の家人であったため、清盛の叔父・平忠正らともどもこれに加わったものの、兵力は甚だ少なく劣勢は明白でした。崇徳院らは亡き忠盛が重仁親王の後見人だったことから清盛に味方になるよう呼びかけますが、池禅尼の反対により清盛は崇徳を見限り、後白河につきました。為義は夜襲を献策しますが頼長に斥けられ、忠実らが率いる大和興福寺からの援軍を待つことになります。
7月11日未明、後白河天皇は平清盛と源義朝・義康らに命じて白河北殿を襲撃させます。しかし白河北殿の西門には鎮西八郎為朝らがおり、郎党ともども天下無双の武勇で迎撃します。
『保元物語』によると、彼は若年(18-19歳)ながら身長が7尺(2m余)あり、長さ7寸5分(22cm)の矢を弓につがえ、清盛の郎党・伊藤忠直(伊藤六)めがけて発射しました。矢は忠直の鎧の胸板と背を貫通して落馬せしめ、兄の忠清(伊藤五)の鎧の袖に突き刺さります。忠清は駆け寄って助け起こしますが即死しており、矢を清盛のもとに持ち帰り報告しました。
怖気づいた清盛は北門へ向かい、嫡男の重盛が挑もうとしますが慌てて止めさせます。清盛の郎党である伊賀の山田伊行は「矢一本で引き退くのは口惜しい」と進み出て名乗りをあげ、為朝めがけて矢を射掛けますが躱され、二の矢をつがえる間に鎧を射抜かれ射殺されます。
清盛に代わって義朝が攻め寄せると、郎党の鎌田政清が進み出て名乗りをあげ、為朝に矢を放って兜に当てます。怒った為朝は鎮西から伴った28騎を率いて出撃し、白兵戦で政清を撃退しました。義朝も坂東武者200騎を率いて攻めかかり、兄弟同士の激戦となります。
為朝は多勢に無勢、かつ兄を射殺すわけにもいかず苦戦しますが、兄の兜を射て恐れさせ、割って入った義朝の郎党・深巣清国を射殺し、大庭景義の左膝を砕いて落馬させます。この激戦で為朝側は23騎を失ったものの、義朝側は倍以上の53騎を失い、一時撤退に追い込まれたといいます。誇張もあるかも知れませんが実際超人的な武勇です。ニンジャだったのでしょうか。
他の崇徳側も鴨川を防衛線として敵軍を阻み、首都での市街戦は膠着状態に陥りました。攻めあぐねた義朝は、天皇の許可を得て白河北殿の隣の邸宅に放火し、火は白河北殿に燃え移ります。さしもの為朝も火には敵わず、崇徳側は総崩れとなり、崇徳・頼長・為義・為朝は逃亡して行方をくらまし、戦闘は昼までに終結しました。
戦後処理
朝廷は論功行賞を行い、藤原忠通を頼長に代わって藤氏長者とし、清盛は受領最高位の播磨守、義朝は右馬権頭(のち左馬頭)に補任され、義康ともども内昇殿を認められました。しかし忠通は朝廷から藤氏長者を決められることを嫌い、「吉日を選んで」と就任を延期しました。崇徳院は13日に仁和寺に現れ、同母弟の覚性法親王に執り成しを願いますが断られ、朝廷側の監視下に置かれます。崇徳が出頭したと聞き、崇徳側の貴族・武家は続々と投降します。頼長は流矢が首に刺さって重傷を負い、南都・奈良まで逃げ延びて父忠実に対面を願いますが拒絶され、14日に死去しました。
忠実は翌日忠通に書状を送り、朝廷に赦免を願い出ますが、朝廷は「彼は謀反の首謀者であり、頼長ともども所領を没収する」と宣告します。ただし「藤氏長者の荘園は没収しない」と留保条件が付け加えられたため、忠通はやむなく藤氏長者の座につきます。忠実は幽閉とされ、死んだ頼長の所領は没収されましたが、摂関家はなんとか所領を維持しました。
7月23日、崇徳院は讃岐に配流されます。天皇・上皇がクーデターに関わって配流されるのは、764年の藤原仲麻呂/恵美押勝の乱で淳仁天皇が淡路に配流されて以来約400年ぶりです。重仁親王は出家して仏門に入ることを条件に不問とされ、頼長の子息やその一派の貴族も流罪となります。
一方、崇徳派の武士である平忠正・家弘、源為義とその子の頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲らに対しては、810年の薬子の変ぶりに公的に死刑が執行されることになりました。義朝は父と弟たちの助命に奔走しますが許されず、勅命により義朝が彼らの斬首を行うよう命じられます。7月末、義朝は船岡山において父と弟たちの処刑を執行し、清盛も叔父の忠正らを処刑します。為朝は近江国坂田の地に潜んでいましたが、8月に密告により捕らえられ、今度は助命嘆願が通って伊豆大島へ流刑となります。
こうして鳥羽院派改め後白河天皇と近臣たちは、崇徳院および頼長とその一派を排除し、摂関家の力を削ぐことに成功しました。しかし皇室や摂関家の内紛が互いの武士団による首都での市街戦によって解決され、父子兄弟が互いに殺し合い、数百年ぶりに上皇が配流され、また死刑が執行されたことは、人々に大きな衝撃を与えました。保元の乱の前年に生まれ、承久2年(1220年)に歴史書『愚管抄』を著した天台座主の慈円は、この乱こそが「武者の世」の始まりであったと記しています。
保元の乱と戦後処理において主導的役割を果たしたのが、後白河天皇の側近である僧侶・信西でした。彼は鳥羽院の乳母・藤原悦子の甥にあたり、藤原氏ながら摂関家ではなく鳥羽院の近臣として、学識をもって頭角を現した人物です。信西は摂関家を国政から排除し、天皇親政の世を打ち立てようと改革を行いますが、これが「平治の乱」の火種となりました。
◆火◆
◆種◆
【続く】
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