【つの版】邪馬台国への旅11・倭地の習俗01
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
今度は、倭地の習俗について見ていきましょう。帯方郡からの使者が見聞したり聞き込み調査をした情報ですが、使者は伊都國から先に行くことはないので、対馬・壱岐を含む北部九州での見聞に過ぎません。伝聞や憶測、勝手に付け加えられた妄想も既に入っています。充分気をつけて下さい。
◆南◆
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黥面文身
男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東治之東。
男子は大小の区別なく、みな黥面文身(顔と体に入れ墨)している。古来中国にその使者が詣でる際は、みな「大夫」と自称した。夏后少康の子は会稽に封じられ、断髪文身して蛟龍の害を避けた。いま倭の水人は好んで沈没して魚やはまぐりを捕らえるが、文身はまた大魚や水鳥を避けるまじないであり、のちに装飾となったものである。諸國によって文身に違いがあり、左右や大小に施され、尊卑によって差がある。その道里を計ってみるに、会稽東治(冶、会稽郡東冶県=福建省福州市)の東にあたる。
習俗の項の最初に「黥面文身」が出てきます。顔と体へのタトゥー、入れ墨(刺青)です。文身の習俗は韓にも見られ、馬韓条に「其男子時時有文身」とあり、弁辰(弁韓)条に「男女近倭、亦文身」とありますが、ここまで詳しくはありません。よほど印象的だったのでしょう。倭地への船の漕ぎ手はほぼ全員彫り物を背負っていたと思われます。
倭人の使者が自称する「大夫」は倭語ではなく中国語で、周の身分制度では士の上、卿の下に属する中小領主階級でした。ここから、倭人伝の報告者は倭人の習俗をチャイナの制度や習俗と結びつけようとします。高句麗や韓でも大夫の称号は用いられているので、弁韓などから伝わったのでしょうが。
春秋戦国時代、チャイナ東南部には越が勃興して覇者となりましたが、その首都は会稽(浙江省紹興市)で、王族は「夏の后(王)である少康の庶子の子孫」と称していました。夏は周が倒した殷の前の王朝ですから、中原諸国に対して箔をつけようとしたのでしょう。『史記』『漢書』にもあるこの故事のイメージを、倭人に対して投影したのです。
「会稽東冶の東にあたる」の話は前にしましたね。福建省福州市の東にあるのは台湾か沖縄ですが、倭人伝の編纂者は距離や方角を調整して、この位置に邪馬臺國を設定したのです。
太伯之後
また黥面文身や夏后少康の子の話に関連して、『翰苑』に引く『魏略』逸文には「聞其旧語、自謂太伯之後」、『梁書』に「自云太伯之後」、『晋書』に「自謂太伯之後」とあります。太伯とは越の隣国である春秋時代の呉(江蘇省蘇州市)の祖で、周の文王の伯父です。彼は王位を末弟に譲って荊蛮の地に去り、断髪文身したといいますが、少康の庶子と同じく後付の話です。
要は倭人の黥面文身の習俗を呉や越と結びつけるための記述ですが、なぜか魏志倭人伝には「自ら太伯の後と謂う」の記述がありません。孫呉と結びつけられると困るという発想でしょうか。その割に会稽や越の話はしており、越が呉を滅ぼした故事を思い起こさせようとしているのかも知れません(魏志以前の魏略には太伯の話がありますが、梁書で付け加えられたのを翰苑が魏志からとして付け加えた可能性もあります)。
実際、チャイナ南部の諸国・諸族と倭人の習俗はよく比較され、倭人(弥生系倭人)はこれらの地域から日本列島に渡ってきたとはよく言われます。おそらくそうでしょう。越や呉から直接渡ってきたというより、山東半島や朝鮮半島南部を経由して来た形跡はあります。徐福がいた琅邪(山東省青島市黄島区)は山東半島南部にあり、かつて越がここに都を遷していました。琅邪を江蘇省連雲港市だとか山東省臨沂市だとかするのは、漢代以後の琅邪郡の範囲内にあるからという程度の後付です。いずれ徐福の話もします。
倭人の方も、弁韓や楽浪郡・帯方郡と長年接触して漢字の知識もありますから、噂話程度にしろ越や呉のことも知っていたはずで、箔付けのために自らそう名乗っても不思議はありません。楽浪や帯方の漢人が吹き込んだのかも知れません。馬韓では「箕子朝鮮の王が亡命して韓王になった」という伝説がまことしやかに語られていました。
倭人が「徐福の子孫だ」とか「高天原から天降った天孫の子孫が東征した」とか語ったとは、どこにも書かれていません。まだそうした話はなかったのです。神武天皇の名は魏志倭人伝どころか『宋書』『梁書』『隋書』『旧唐書』にすら見えず、中国の正史では1060年成立の『新唐書』に初めて現れます。『宋史』日本国伝に「雍熙元年(984)、日本国僧の奝然が『王年代紀』をもたらした」として歴代の天皇を並べており、これを『新唐書』が用いたものでしょう。遣唐使によって『日本書紀』は唐にもたらされていたと思うのですが、戦乱で失われたのでしょうか。
『古事記』によると、神武天皇がヤマトに入った後、三輪山の大物主神の娘イスケヨリヒメを娶りました。この時、神武の家臣の大久米命が彼女を迎えに行きましたが、彼女は大久米命の顔を見て「など黥(さ)ける利目(とめ)」すなわち「なぜ目の周りに入れ墨をしているの」と歌で問いかけたといいます。このことから「ヤマトには入れ墨の風習がなかった、だから九州が云々」という人もいます。しかしイスケヨリヒメが入れ墨を知らなかったとはどこにも書かれていません。魏の使者は伊都國に留まっていてヤマトには来ていませんし、古事記は魏志倭人伝より400年は後に作られたものですし、入れ墨を知らなかったという解釈で書かれていたとしても、飛鳥時代や奈良時代には顔に入れ墨をすることが珍しくなっていただけでしょう。またこの部分はたぶん掛け合いの恋歌を物語にはめ込んだだけです。
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頭髪と衣服
其風俗不淫。男子皆露紒、以木綿招頭。其衣橫幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈紒。作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻・紵麻、蠶桑緝績、出細紵縑綿。
その風俗(風習)は淫らでない。男子はみな紒(結んだ髪)をあらわにし、木綿を頭に縛って髷(角髪か)を作る。その衣は横幅の布をただ結束して相連ねるだけで、ほとんど縫い合わせない。婦人は被髪(ざんばら髪)で、一部を屈めて結び髪とする。衣を作るのは單被(一枚布の肌掛け)のようで、その中央に穴を穿ち、頭を貫いて着る(貫頭衣)。禾稲(いね)や紵麻(あさ)を植え、蚕を桑で育てて絹糸を紡ぎ(緝績)、目の細かい麻布(細紵)や絹織物(縑綿)を産出する。
黥面文身の次は、頭髪と衣服です。倭人の肉体に注目しています。文化や文明は近代の外来語を翻訳した造語ですが、「文」とはもともと胸に施す入れ墨のことです。儒教による文、礼儀作法を修めた中国の知識階級にとって、半裸や黥面文身はロウライフのクズかバーバリアンの習俗であり、髷を結い冠や頭巾で隠すのがマナーでした。日本の平安時代にも烏帽子が重んじられましたが、戦国時代以後は逆に髷を露出するのが日常となります。日本人もチョンマゲを切って散切り頭になりました。文化は移り変わるものです。
ともあれ倭人は農耕や養蚕を行い、それなりの衣服を作っていたようです。少なくとも常に裸だとか、体に豚の脂を塗るとか、野獣や家畜の皮を纏っていたとは書かれていません。マナー講師野郎も少しは喜ぶでしょう。なお、「淫ら」とは男女の性関係が儒教的価値観からは外れている程度の意味で、高句麗の民は淫らだと魏志東夷伝に書かれています。余計なお世話です。
動物
其地、無牛馬・虎豹・羊・鵲。
その地には、牛や馬、虎や豹、羊や鵲(かささぎ)はない。
当時の倭地には、牛や馬はまだ入って来ていません。4世紀末に倭國が攻め込んだ朝鮮半島南部から船で持ち込まれました。虎や豹が日本列島にいた形跡もありません(満洲や朝鮮にはいました)。羊は江戸時代まで外来の珍獣扱いで、明治時代に一時牧場が作られましたがあまり定着しませんでした。カササギは中国や朝鮮では親しまれていますが、日本では江戸時代に佐賀や福岡に移入されるまでいなかったようです。なかなか正確ですね。
いる動物としては、後の方ですが、
有獮猴、黑雉。
とあります。獮猴はオナガザル科のマカク属で、チャイナではアカゲザルを指しますが、日本列島にはニホンザルしかいません。アカゲザルやタイワンザルはニホンザルと非常に近く、交雑して子を儲けることができます。
キジも九州・四国・本州に古くからいます。黒雉とはオスの羽毛が黒っぽい緑色をしていることからでしょうか。頭が赤いので目立ったことでしょう。
サル、キジと来てイヌがいれば桃太郎ですが、イヌはあまりにもありふれていたせいか、特に報告されませんでした。イヌは縄文時代からいます。たぶん大吉備津彦命もいるようですし、これで倭地に鬼が出ても安泰です。
武器
兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭、或鐵鏃、或骨鏃。
武器(兵)として矛、楯、木弓を用いる。木弓は下が短く上が長く、矢柄(箭)は竹で、矢尻(鏃)はあるいは鉄、あるいは骨を用いる。
弥生時代から古墳時代にかけては、ムラやクニ同士の戦闘が日常茶飯事であり、死傷者も多数いたことが考古学的に明らかです。矛は祭具として銅矛があるぐらいですからあるでしょう。銅剣や斧や棍棒などもあったと思いますが言及されていません。楯は木の盾です。日本古来の弓である和弓(倭弓)は長弓(ロングボウ)で、確かに上が長く下が短くなっています。飛距離と殺傷力の向上を目指したのでしょう。また狩猟用なら竹や骨の鏃でいいとしても、貴重な鉄を用いた鏃は戦闘用と思われます。
儋耳硃崖同
所有無與、儋耳、硃崖同。
有無するところは儋耳、硃崖と同じである。
儋耳、硃崖とは海南島です。紀元前110年、漢の武帝は南越王国を滅ぼして郡県を置き、海南島には儋耳郡(儋州市)と硃崖郡(海口市瓊山区)を設置しました。しかしあまりに遠くて支配が行き届かず、反乱も相次いだため、前82年に儋耳郡は硃崖郡に合併され、前46年には硃崖郡も放棄されました。後漢の光武帝は儋耳郡を再設置しましたが、順帝の時に廃されました。
『漢書』地理志・粤地にはこうあります。
自合浦徐聞南入海、得大州、東西南北方千里。武帝元封元年、略以為儋耳、珠崖郡。民皆服布如單被、穿中央為貫頭。男子耕農、種禾稻紵麻、女子桑蠶織績。亡馬與虎、民有五畜、山多麈嗷。兵則矛、盾、刀、木弓、弩、竹矢、或骨為鏃。自初為郡縣、吏卒中國人多侵陵之、故率數歲壹反。元帝時、遂罷棄之。
服装といい産物といい武器といい倭人伝の描写によく似ており、報告者か編者が「南方っぽくて似てるな」と思ってこの部分をコピペした可能性があります。よくあることです。実際の倭地と全く違う、とまでは言えませんが、当時の魏に海南島の習俗を実際に知っている人がどれだけいたでしょうか。
『後漢書』東夷伝倭条では、これをさらに雑に敷衍して「其地大較在會稽東冶之東、與硃崖、儋耳相近。故其法俗多同(その地はおおよそ会稽東冶の東にあり、硃崖、儋耳と相近い。ゆえにその法俗は多く同じである)」としていますが、福州市と海南島は1000km以上も離れており、方角も東どころか南西です。台湾と海南島の先住民は文化的には近いかも知れませんが。
ともあれ、倭人伝は倭地を南方海上、沖縄や台湾や海南島の近くに置きたいようです。魏晋からすれば呉の背後にあたり、そうした情報を流せば牽制ぐらいにはなるでしょう。呉の孫権は230年に夷洲(台湾)へ出兵し、242年には硃崖・儋耳に兵を派遣して珠崖郡を再設置しています。
倭地温暖
倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。
倭地は温暖で、冬も夏も生菜を食べ、みな徒跣(はだし)である。
このように倭地が南方であると「設定」されているのですから、実際の倭地(帯方郡の使者がいる北部九州)より温暖そうな描写が増えるのは仕方ありません。裸足の人はいたとしても、日本に生野菜を食べる習慣はなく、火を通さない野菜を食べるのは漬物か酢の物程度です(冬でも野菜が生えているほどの意味かも知れませんが)。帯方郡(ソウル)や楽浪郡(平壌)に比べれば南海の彼方なので温暖でしょうが、対馬海峡や玄界灘沿岸は日本海側なので冬場は北西の季節風が吹き付け、山間部では積雪もあります。帯方郡の使者もその季節風を利用して対馬海峡を渡ってきたはずです。
◆南◆
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今回はここまでです。次回も倭地の習俗を見ていきます。
【続く】
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