【つの版】邪馬台国への旅10:其餘旁國と狗奴國02
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
21の其餘旁國が邪馬臺國から狗奴國に至る途上に並んでいるとすれば、邪馬臺國の位置はわかったのですから、狗奴國への方角と位置が推定できれば、旁國がどのあたりか見当もつくはずです。前回、狗奴國が邪馬臺國の西、熊本県以南にあると推定し、旁國は瀬戸内海沿岸か四国にあり、最後の「奴國」は北部九州を覆う2万戸の奴國と同一であろう、というところまで詰めて来ました。それでは残る20國について考えていきます。
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瀬戸内海ルート
ヤマトから西へ向かい奴國へ戻る(福岡平野ではなく大分県へ)ルートを考えてみましょう。ひとつは瀬戸内海ルートです。これには山陽沿岸と四国北部沿岸の両路があります。
瀬戸内海では1日に2回の干満があり、6時間毎に潮流が逆転するため、逆潮を避け潮に乗るために潮待ちの停泊がありました。そのうちで陸地に沿い、島々の間を通り、かつ潮流の速い山陽沿岸が、東西を結ぶ幹線航路に選ばれるのは必然でした。『隋書』倭國伝にも「又至竹斯國、又東至秦王國。…又經十餘國、達於海岸」とあり、各地に港町としての「國」があったのです。弥生時代には高地性集落が畿内から瀬戸内海の各地に営まれました。
1.河内平野へ
奈良盆地東南部から瀬戸内海に出るには、二上山の南の竹内街道(丹比道)を通るか、大和川沿いに亀の瀬を抜けるかして河内平野に出ます。古代から使われていた道で、道沿いには古墳や遺跡、古い社寺が並んでいます。今は香芝市の西側に田尻トンネルがついていますが。
2.河内湾
古代の河内平野には、大阪湾から海が入り込み、大きな入り江「河内湾(河内湖、河内潟)」を形成していました。大和川もここへ南から流れ込んでおり、頻繁に洪水を起こしていて、現在の下流部は江戸時代に「川違え」を行った結果です。
ちょうど弥生後期から古墳時代にかけて森ノ宮(大阪城)あたりから北へ砂洲が伸び、淀川河口部を遮って、河内湾は淡水化しました。ここから出てもいいのですが、上町台地沿いには巨大古墳が並んでおり、大阪湾へ直接出てもよさそうです。ともあれ、この河内地方はまだ広域邪馬臺國のうちです。
3.河内から吉備まで
堺区か住之江区あたりから出港したとして、20kmほど海を渡れば神戸市です。古代には兵庫津が置かれました。ここから陸沿いに航行し、明石海峡、加古川、高砂、姫路を経て兵庫県たつの市の室津に至ります。
家島諸島を左手に見ながら赤穂を過ぎ、岡山県(備前国)に入ると、小豆島の北、瀬戸内市の南岸に牛窓があります。神功皇后が三韓征伐から帰る時、この地で牛鬼が襲って来たのを住吉明神が投げ飛ばしたという伝説があり、牛転(うしまろび)が訛って牛窓になったといいます。古来栄えた港のひとつでした。ここまでで大阪から130kmほど、船なら2日か3日です。
4.吉備から九州まで
ここから児島湾に入ります。今は干拓されてすっかり陸地になりましたが、かつては児島(吉備の児島として記紀の国産み・島産みにも数えられます)と本土の間に広がる海でした。岡山・総社・倉敷と吉備国の中枢部がここに面しており、楯築遺跡も吉備津神社や鬼ノ城もすぐ近くです。こちらに行かない場合は児島の南岸を進み、瀬戸大橋のたもとの下津井港に入ります。大阪から下津井まで176kmほど、牛窓から45kmほどです。
さらに40km西へ進むと、広島県福山市の鞆の浦です。ここから南下して伯方島・大島・大三島の間をくぐり抜け、島伝いに西へ向かうと呉市。倉橋島と本土の間の音戸の瀬戸をくぐり、広島湾を横切ると岩国市。南下して屋代島(周防大島)と本土の間をくぐり、山口県熊毛郡上関に入ります。中世には下関(馬関)・中関(防府)とともに船の荷を検査する番所がありました。
そして光市、防府市(中関)、宇部市と進めば、大阪市から500kmほどで下関市に着き、九州に戻って来ます。上関から祝島・姫島を経て宇佐に入港することもできますし、国東半島沖を巡って大分市に着くことも可能です(ともに480kmぐらい)。お疲れ様でした。
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さて、この間に奴國を除く20國、隋書倭国伝にいう十数國(秦王国を除く)があるはずです。500kmほどを20で割ると25kmごとに國が1つあることになりますが、吉備はまず含まれるでしょう。最後が奴國とすると、最初の斯摩國は「しま」ですから、瀬戸内海最大でヤマトから近い淡路島が含まれない可能性は低そうです。では次の已百支國とは、室津か赤穂でしょうか。支惟國が吉備國とすれば、奴國までは間に烏奴國しかありません。烏奴をアナと読めば穴門國、長門国のことでしょうか。
しかし、ルート上にそれらしい地名をうまく発見することは難しそうです。不彌國のように消えてしまった地名も多いのでしょう(三韓の70余國もほとんどが不明ですし)。ただ、三角縁神獣鏡が出土した古墳のある町がこのルートにいくつかあり、淡路島の洲本市、神戸市灘区と東灘区、兵庫県たつの市、岡山県備前市・岡山市(吉備)、広島県福山市・東広島市・広島市、山口県周南市があげられます。なんらかの國が存在したことは確かでしょう。
南海道
南海道も検討してみましょう。奈良盆地から河内平野に出て南西に向かい、和泉地方(弥生中期の大規模環濠集落・池上曽根遺跡があります)から淡路島へ渡るか、御所市から五條市へ抜けて紀の川を下り、和歌山市から淡路島へ渡ることになります。おそらくは斯馬國です。
淡路島南岸には山々が海まで迫り、漁村程度しかありません。渦潮渦巻く鳴門海峡を当時の船で渡るのは極めて危険ですから、阿万町あたりから8kmほど海を渡れば鳴門市、阿波国板野郡です。この市には大麻比古神社があり、いくつかある阿波国一宮のひとつです。ここが「已百支國」でしょうか。
邪馬臺國と東四国(阿波・讃岐)の関係はかなり重要です。前に見たように葛城地方の勢力は吉野川・紀の川・淡路島を経て徳島県南部(長國、那賀郡)に伸びていましたが、そこの若杉山遺跡では「丹(水銀朱、辰砂)」の採掘が弥生後期から行われ、近畿各地に運ばれていました。
また徳島県南部の海部郡は、畿内の纏向型(庄内式)をはじめとする外来系土器が県内で最も出土している地域で、海上ルートの中継地であったと考えられています。こうした件については、また後で語ることにしましょう。
しかし伊邪は伊予か、彌奴は美濃か、對蘇は土佐では、蘇奴は讃岐かも……こんな調子で、いまだに誰もこれらの国々を確実に特定した人はいません。つのもお手上げします。考古学的成果と古地名、古墳や遺跡をすり合わせて行けば何か見えてくるかも知れません。あなたも考えてみて下さい。語呂合わせや漢字の無理な読み方、後世に付けられた地名を勝手に古代にあったと読み替える、といった手法は無意味です。これらの国々に関しては、倭人や魏使が適当なことをぶっこいた可能性もあります。
補足
『後漢書』では光武帝から金印紫綬を賜った倭奴國を「倭國の極南界なり」としていますが、これは魏志で「遠絶旁國」の最後に奴國があることから、倭奴國をそれと同一視したものです。確かに魏志では女王の領域のうち最も「南」にあることになっていますが、「北」にあるはずの女王國(後漢末にも存在したので一応後漢書にも記載されています)を通り越して南端の属国が先に朝貢に来るというおかしな話になってしまいますね。実態はこれまで見たとおり、倭奴國(伊都國+奴國等)は北部九州にあったわけですが。
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侏儒國、裸國、黒齒國
ここから旁國とはまた別の話、別の方角の国々です。前述の「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の後に、このような文章が続いています。どれも実在性は薄いですが、一応見ていきましょう。この東海の倭種の國とは、前回見た通り伊勢湾を船で渡った愛知県あたりです。
侏儒(しゅじゅ)とは漢語で「こびと(矮人、身長が異常に低い人)」をいい、『山海経』など幻想的な地誌にも東海や南海の彼方に小人國が出てきます。小人の伝説は欧州やハワイなど世界中にあり、寓話化されてもいます。
「其南」とすると東海の倭種の南となりますし、女王(國)を去ること4000余里と具体的な数字も出てきます。女王國から「千里(概数)」海を渡った先にある愛知県から南に3000里(1302km)進むと、小笠原諸島の南西あたりの海上です。1/5して600里(260.4km)とすると、真南には海しかありませんが、南西260kmあたりに伊豆諸島が存在します。伊豆諸島北部には縄文時代から人類が居住した痕跡があり、弥生時代には三宅島で稲作が行われていました。本土とも意外と古くから交流があったようです。
もちろん、伊豆諸島の住民の背丈がみな1メートル未満だったわけではないでしょう(フローレス人は数万年前に絶滅しましたし、東南アジアのネグリトも平均身長は150cmほどです)。先に小人國の伝説が中国側にあり、「東南海の彼方だったらいるだろう」と編者が勝手に付け加えたのか、倭人の側にもたまたまそういう伝承があったのかはわかりません。愛知県から東南にある島々となると、伊豆諸島がそこにある、というだけです。アイヌ伝説のコロポックルとは関係ないと思います。
裸國は衣服を纏わない裸の民が住む國で、『呂氏春秋』や『淮南子』に南方の民として出てきます。チャイナでは衣服を纏うことが文明の証ですが、禹が天下を巡って裸國に入ると、その習慣を尊重して裸になったといいます。寓話とはいえ、海の彼方ではなくチャイナと地続きの南方にも住むとされていたわけです。現代でも熱帯地方の奥地などに裸同然の姿で暮らしている人々がいますし、古代にはより広範囲にいたでしょう。
黒齒國は『淮南子』『山海経』にも現れます。東海や南海の果てに住み、歯が黒く稲や蛇、黍を食べ、四鳥を使役するといいます。日本や東南アジアにはお歯黒の風習がありましたし、ビンロウの実とキンマの葉を噛む風習も東南アジアに古くから存在しました。稲や黍、蛇を食べることも東南アジアや南チャイナでは珍しくありません。四鳥(風神?)を使役するというのは不明ですが、そういう壁画があったのでしょう。
この裸國と黒齒國は侏儒國から一年も航海した彼方にいるというのですが、伊豆諸島から一年も航海すると太平洋の彼方になります。戯れに1日50kmとしても1万8250kmで、フエゴ島を巡って地球の裏側のフォークランド諸島か、南極大陸あたりになります。1/5して70日余りとしても3600km彼方で、ミクロネシア連邦のポンペイ島になります。裸はともかくミクロネシアで稲が栽培された形跡はあまりなさそうです。
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要は、東方や南方にあるという伝説上の土地と住民を中国人が想像で配置しただけです。よくあることです。中国人や倭人が太平洋の彼方まで探検航海をして、実際に発見したわけではありません。「九州の女王國の南なら沖縄だ」とか言っても、侏儒國はともかく裸國と黒齒國は南西ではなく東南ですし、九州から真南に行けば大東諸島があるだけです(明治時代まで無人でした)。南を東と読み替えて東北や蝦夷地だというなら、寒冷地なのに裸で暮らしていたのでしょうか。まあ東夷伝は満洲のツングース系民族らしき挹婁を「夏は裸で、僅かな布で前後を隠している」と書いてはいますが。
また東夷伝の東沃沮(咸鏡道)条に、東海(日本海)に到達した魏の将軍・王頎が、土地の老人から海の彼方について聞く場面がありますが、「漁船が数十日漂流して島に着いたが、住民とは言語が通じず、7月に童女を海に沈める風習があった」「女だけいて男がいない國がある」「袖の長さが三丈(7.23m)もある服が漂着した」「うなじにも顔がある者が船に乗って漂着した」といった奇譚でした。これらも実在するというのでしょうか。
◆いあいあ◆
◆くとぅるう◆
今回はここまでです。これで概ね倭人諸国の位置関係は判明しましたので、次は倭地の習俗について見ていきます。地味ですが重要な情報もあります。
【続く】
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