【つの版】ウマと人類史:中世編08・安史之乱
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
ユーラシア東部の覇権国であった唐は次第に勢力が衰え、周辺諸民族は自立して唐を圧迫します。唐は各地に節度使を置いて軍政を委ね防衛に当たらせますが、これが天下を揺るがす「安史の乱」の原因となりました。
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政治対立
玄宗の宰相・李林甫は、堅実で有能ではありましたが狡猾で、自らの派閥で内外の人事を固め、敵対者を左遷・粛清しました。長年玄宗に仕えた老宦官の高力士は遠ざけられ、天下の貢物や官僚は李林甫の自宅に集まります。安禄山もせっせと彼に取り入って賄賂を貢ぎ、また玄宗と楊貴妃には父よ母よと媚びへつらって忠誠心をアピールしました。
751年には范陽(幽州/北京)・平盧(営州/朝陽)・河東(幷州/太原)の三節度使、河北道采処置使(河北省の総督)を兼任し、遼寧省・北京・天津・河北省及び山西省の北部を管轄する大軍閥となります。特に平盧節度使には742年から10年近く在任しており、子飼いの部下たちに慕われていました。隴右・朔方・河西・河東節度使の王忠嗣は彼と対立しますが、747年に失脚します。749年には王忠嗣の部下で突騎施出身の哥舒翰が後を継いで隴右節度使となり、当然に安禄山との対立関係も引き継ぎました。
この頃、楊貴妃の又従兄弟である楊国忠が李林甫と対立し始めます。彼はもとの名を釗といい、弘農楊氏という漢代からの名門貴族の出身でしたが、酒と博打と女が好きなヨタモノで、楊貴妃をつてに玄宗や李林甫へ取り入って出世しました。出世すれば李林甫に睨まれますから、いっそ自分が彼に取って代わってやろうと思ったようです。彼は李林甫の失点をあげつらい、謀反の疑いをかけて失脚させ、753年に李林甫が病死するとその党派を粛清して自らの派閥に入れ替えます。安禄山や哥舒翰は抜け目なく楊国忠派に鞍替えしたものの、楊国忠は帝都長安に近い哥舒翰を味方につけ、安禄山と対立することになります。
754年、安禄山は「楊国忠から迫害されている」と玄宗に泣きつき、自らの派閥の吉温を宰相に推薦しますが、楊国忠に阻まれます。安禄山は急いで范陽に戻ると病と称して出仕しなくなり、各方面へ根回しして軍事的圧力をかけ始めました。そして755年11月(新暦12月)、ついに「君側の奸たる楊国忠を除く」と称して挙兵したのです。彼の軍勢は親衛隊8000騎、蕃人・漢人合わせた総兵力は10万から15万にものぼりました。
大燕皇帝
玄宗は皇子の栄王李琬を討伐軍の元帥、高仙芝を副元帥に任じ、高仙芝の部下の封常清を范陽・平盧節度使に任じて洛陽へ赴かせます。彼は洛陽で兵を募集し6万人を集めますが、散々に撃ち破られて敗走し、洛陽はたちまち陥落してしまいます。封常清は本隊を率いて東征に向かっていた上司の高仙芝と合流して「賊軍の勢いは盛んですから、退いて潼関(陝西盆地東方を守る要衝)を守るべきです」と伝えました。まもなく安禄山の軍勢が襲来し、高仙芝は迎撃しますが撃ち破られ、どうにか潼関まで撤退しました。
封常清と高仙芝は敗戦の罪で処刑され、哥舒翰が代わって元帥となり、潼関に駐屯して長安を守ります。朔方節度使をつとめていた安思順は、安禄山の義兄弟だったことから疑われ、長安へ呼び戻されます(のち冤罪を着せられ処刑)。後任の朔方節度使には思順の部下の郭子儀が任命され、その推薦で李光弼が河東節度使に任命されます。河北では常山太守の顔杲卿、平原太守の顔真卿が籠城して反乱軍と戦い、唐の忠臣として抵抗しました。
756年正月、安禄山は洛陽で「雄武皇帝」を号し、国号を燕とし、建元して聖武としました。ソグドと突厥の混血の「雑種胡人」が、チャイナで皇帝を号したのです。匈奴単于家の劉淵、鮮卑拓跋部の北魏、漢人と称していた隋唐はともかく、まったくの胡人がおのれの才覚により一代で成り上がって天子となるのは、かつての石勒を思わせます。また遼西・北京から中原に入って皇帝となったのは鮮卑慕容部の燕国の例があります。
しかし、君側の奸を除くどころか皇帝を僭称した逆賊に対し、大義名分を得た唐軍は反撃に転じました。哥舒翰は潼関で敵軍を撃退し、郭子儀と李光弼は史思明を撃ち破って河北を奪還、河南では張巡が賊軍を阻んで河南節度使に任じられ、北方では奚と契丹が范陽を襲撃します。チャンスと見た楊国忠は6月に哥舒翰を強いて潼関から出撃させますが、哥舒翰は敵将の崔乾祐に大敗を喫して捕縛され、潼関が陥落しました。
これを聞いて長安はパニック状態となり、楊国忠は自分が節度使をつとめていた蜀(剣南)への脱出を玄宗に勧めます。やむなく玄宗はこれに従い、太子や楊貴妃、高力士らを伴って長安を脱出します。しかし長安から西へ60kmほど進んだ馬嵬(咸陽市興平)まで来た時、兵士らは前進を拒み、将軍の陳玄礼らは「もとを正せば楊国忠と楊貴妃のせいです。これを殺して天下に謝罪すべきです」と正論を吐きました。老いた玄宗は庇いましたが、もはや将兵の暴動は抑えきれず、楊国忠はなぶり殺されて首級が槍の穂先に掲げられ、楊貴妃は縊死し、楊氏一門は皆殺しとなります。
失意落胆した玄宗はそのまま蜀へ避難しますが、皇太子の李亨らは父と分かれて北へ向かい、朔方節度使である郭子儀の駐屯する霊武(寧夏回族自治区銀川市霊武)に入ると、7月に群臣の推挙を受けて唐の皇帝に即位しました。これが粛宗です。玄宗は蜀でこれを事後承認し、自らは帝位を退いて太上皇となりました。この頃、長安には安禄山の部下で契丹人の孫孝哲らが攻め入り、殺戮と掠奪の限りを尽くしています。
燕は顔真卿を駆逐して河北を奪還し、遼寧・北京・河北・山東・洛陽・長安を抑えましたが、山西には李光弼、河南には張巡が踏ん張っており、南方も動揺はしたものの一応唐に従っています。そして霊武の粛宗は、長安を奪還すべくウイグルと手を組みました。
葛勒可汗
この頃、ウイグルでは第二代君主の葛勒可汗が在位していました。粛宗は敦煌王の李承寀、ウイグル系の僕固懐恩、ソグド人の石定蕃らを派遣し、唐を救援するよう要請します。建国間もないウイグルにとっては、タブガチュを支援して大恩を着せる絶好の機会ですし、安禄山の燕国はウイグルが滅ぼした突厥が復活したようなものですから、滅ぼしておかねば厄介です。カガンは快諾を与え、娘を敦煌王に嫁がせて同盟しました。756年11月、燕の阿史那承慶は突厥・同羅・僕骨の騎兵5000を率いて長安から霊武へ攻め上りますが、唐とウイグルの連合軍に撃破されています。
一方、安禄山は眼病を患って失明し、悪性の腫物に悩まされていました。天罰ともいいますが、彼は節度使になってから張守珪の言いつけを破って肥満体に戻り、体重は330斤(200kg)もあって腹の肉は膝まで垂れ下がっていたと伝えますから、糖尿病からの網膜症でしょう。そのため周囲の人間に対して粗暴になり、側近を折檻するようになりました。また皇太子の安慶緒を廃位して、妾の産んだ安慶恩を跡継ぎにしようとしたため、慶緒は厳荘や宦官の李猪児と共謀します。757年正月、安禄山は李猪児に腹を刺されて暗殺され、慶緒は「重病ゆえわしに譲位された」と発表して帝位につきました。時に安禄山は数え55歳、皇帝を僭称して僅か1年の在位でした。
安禄山の乱は、日本にも遣唐使を通じて伝えられています。756年に太上天皇(聖武天皇)が崩御しており、758年に「勝宝感神聖武皇帝」の尊号を奉られていますが、安禄山の建てた元号が聖武なのにいいのでしょうか。
唐・ウイグル連合軍は勢いづき、2月には固原を経て鳳翔(宝鶏市)まで南下、陝西盆地に入ります。9月にはウイグルの葉護太子が援軍4000余を率いて到着し、唐軍の元帥である広平王の李俶と兄弟の契りを結びました(李俶が兄)。僕固懐恩、郭子儀らが将軍となり、総勢15万の連合軍は10月に長安を奪還します。恐れおののいた安慶緒は洛陽を棄てて北方へ遁走し、黄河を渡って鄴(河北省邯鄲市)に入りました。唐は長安と洛陽の両京を奪還し、燕の劣勢は覆うべくもなくなります。安禄山の盟友であった史思明は安慶緒を嫌って范陽に駐屯し、唐への寝返りを画策する有様でした。
758年5月、葛勒可汗は長安に使者を派遣し、粛宗に公主を降嫁して欲しいと要求します。この時ウイグルの使者は大食の使者と序列を争い、外交官は両者を東西に分けて対等の扱いにしています。7月、粛宗は娘を寧国公主に封じてウイグルに嫁がせ、葛勒可汗を英武威遠毘伽可汗に冊立しました。唐・ウイグル連合軍はその後も燕を攻め、史思明は759年3月に安慶緒を攻め滅ぼすと、自ら大燕皇帝に即位しています。
彼は初名を窣干といい、史姓はソグディアナの昭武九姓のひとつで、史国出身のソグド人です。ケシュはウズベキスタンのシャフリサブズにあたり、康国のすぐ南にあります。安禄山と同じく営州に住んでいた雑種の胡人で、父母の名もわかりませんが父が突厥、母がソグドの混血ともいいます。痩せていて髪や鬚は少なく、いかり肩の猫背で目が大きく鼻が高いという風貌をしていました。彼は安禄山を一日年長の兄貴として慕い、その側近として仕え、玄宗から「思明」の名を授かったのです。禄山が「光明」の意だとすると「禄山を思慕う」の意となりますし、光明神を崇める祆教や明教とも関係があるかも知れません。
大乱終結
759年4月、葛勒可汗が逝去し、葉護太子は「すでに殺されていた」ため、次子の移地健が立って牟羽可汗となりました。彼は父の妃であった僕固懐恩の娘をレビラト婚で娶りますが、唐の寧国公主は帰国させています。共通の敵である燕が弱まったことで、唐とウイグルの蜜月関係はやや冷え込んできたようです。殺されたという葉護太子は唐の皇子と兄弟になっていましたし、何か繋がりがありそうですね。
史思明は范陽に拠って唐と戦いますが、761年に子の史朝義に暗殺されます。安禄山と同じく末子を跡継ぎにしようとして反逆されたといい、史朝義が跡を継いで皇帝となりました。唐では762年4月に玄宗・粛宗が相次いで崩御し、皇太子の李俶が即位します(代宗)。
史朝義は素早くウイグルへ使者を派遣し、混乱に乗じて唐へ侵攻すべしと唆しました。8月、カガンはウイグル軍10万を率いて南下し、唐を脅かしたものの、僕固懐恩の説得により唐側につきます。この頃燕は洛陽を再占領していましたが、10月に撃ち破られて史朝義は河北へ逃げ、763年正月に追い詰められて自決します。ここに8年にも及んだ安史の乱(安禄山・史思明の乱)は終結したのです。
しかし唐の権威は失墜し、ユーラシア東部の覇権は回紇と吐蕃に移ります。また燕の残党は唐の官位を授かって服属したものの、結局は従わなくなり、官職の任免を勝手に行ったばかりか、租税さえ朝廷に送らなくなりました。同様の事態は唐が緊急事態に対処するため全土に設置した藩鎮(節度使の領国)でも起き、唐の天子は各地に割拠する藩鎮に担がれる程度の存在に成り下がりました。この状態は907年に唐が滅亡するまで150年近くも続きます。その後の様子を見ていきましょう。
◆Eat◆
◆It◆
【続く】
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