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【つの版】日本刀備忘録35:田村将軍

 ドーモ、三宅つのです。久しぶりに前回の続きです。

 酒呑童子の出生地が越後とされた理由は、結局よくわかりません。八岐大蛇は高志の出身ですし、伊吹山や戸隠山からも東北(鬼門)にありますし、現地に伝わっていた「鬼子」の伝説が酒呑童子と結びつけられた、と見るのが妥当なところでしょうか。弥彦山の東北、蝦夷の地にも多くの鬼たちがおり、戸隠山や伊勢の鈴鹿山にも鬼女たちがいたといいます。それぞれの伝説は武士や刀剣とも関わりますので、引き続いて見ていきましょう。

◆刀◆

◆剣◆


田村将軍

 日本国と蝦夷の戦争は8世紀初頭から断続的に100年ほども続きましたが、その末期に活躍したのが征夷大将軍・坂上田村麻呂です。彼は蝦夷を平定する手柄を立て、桓武天皇が崩御した後は平城天皇と嵯峨天皇を輔佐し、生前から毘沙門天の化身と讃えられ、弘仁2年(811年)に薨じた後は護国の神として篤く祀られました。そのため中世には彼を主人公とする伝説が語られるようになり、武家が天下を取ると武士の理想像としてもてはやされました。

 嵯峨天皇は平安京の東の山科に彼を埋葬しましたが、甲冑・武具が副葬されて東に睨みをきかせるようにし、将軍が朝敵を討伐するために出陣する際には彼の墓を詣でるよう命じました。また国家に非常事態が起きれば墓から軍鼓の音が雷鳴のように轟くであろうと喧伝し、田村麻呂の遺品の佩刀を一振り選んで朝廷守護の「坂家宝剣」として御府に納めています。さらに伊勢国の鈴鹿峠の二子の峰、近江国甲賀の土山にも彼を祀りました。なお京都東山の清水寺は田村麻呂が建立したと伝えられます。

 田村麻呂の伝説化は生前から行われましたが、彼が活躍した陸奥国では毘沙門天(北天)の化現として尊崇を集め、各地の寺院に毘沙門天像が祀られました。安倍氏・清原氏・藤原氏らも盛んに毘沙門天を祀り、坂上氏の末裔が彼らに仕えた記録もあります。源頼義・義家・頼朝らが奥羽を平定すると田村麻呂伝説も箔付けのために取り入れられています。頼朝が征夷大将軍の号を賜ったのも、田村麻呂にあやかってのことでした。

 正安2年(1300年)頃に成立した鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』によると、文治5年(1189年)9月21日、頼朝は陸奥国胆沢郡の鎮守府八幡宮を参詣しました。そして田村麿(麻呂)将軍が東夷を征伐した時に勧請した霊廟であると説明を受けると、頼朝はここを鶴岡八幡宮の第二殿とし「神事は(鎌倉の)御願として執行せよ」と命じたといいます。清和源氏の守護神である京都の石清水八幡宮が宇佐八幡宮から勧請されたのは田村麻呂薨去後の貞観元年(859年)ですから、ここはそれ以前に創建されたことになります。

 同月28日、頼朝は奥六郡から鎌倉へ帰還する途中に平泉を通りましたが、その南西に岩屋(窟)がありました。頼朝が捕虜に由来を尋ねると、彼らはこう答えました。「ここは田谷(達谷たっこく)の窟といいます。田村麿(田村麻呂)や(藤原)利仁らの将軍が勅命を受けて蝦夷を征伐した時、賊主の悪路王赤頭らが砦を構えていました。ここから北に10余日行くと外ヶ浜(津軽海峡の南岸)に至ります。坂上将軍はここに精舎(寺院)を建立し、鞍馬寺を模して多聞天(毘沙門天)を安置し、西光寺と名付けて東西30余里、南北20余里の田(領地)を寄付しました」云々。

 しかし、史実の田村麻呂がこうした名の賊徒を討伐した記録はなく、藤原利仁は田村麻呂薨去の百年も後に鎮守府将軍となった人物ですから、後世に生まれた伝説のようです。史実で田村麻呂と戦い降伏した蝦夷の族長・阿弖流為と母禮のことではないかとも言われますが、定かではありません。

悪路高丸

 天福元年(1233年)正月五日に記されたとされる「藤原実久白馬祭由来記」に次のような伝説があります。「後堀河院の御代に、関白道家朝臣の子であった征夷大将軍の頼経が悪来王を退治するために関東へ下向された時、鹿島神宮の神託を受けた」。頼経とは摂関家の九条道家の子で、頼朝の子の実朝が暗殺されて源氏将軍が絶えた後、北条氏らによって京都から招かれて鎌倉殿・征夷大将軍に立てられた人物(摂家将軍)です。ただ彼が鎌倉に迎えられた時は2歳の幼児で、征夷大将軍となった嘉禄2年(1226年)には元服こそしていたものの8歳でしかなく、天福元年には15歳の若者です。

 藤原実久とは、藤原氏と同祖の大中臣氏で常陸国那珂郡の惣地頭であった御家人の那珂実久のことと推測されます。彼は頼朝に仕えて京都守護職にまで登りましたが、同じ藤原氏のよしみで頼経と親しく、執権北条氏とは対立関係にありました。彼かその子孫が頼経の正統性に箔をつけるため、奥州の悪路王伝説を借りて「悪来王」とやらを作り出したのでしょうか。

 藤原頼経が奥州へ遠征したことはありませんが、単に悪来といえばチャイナの史書『史記』などに登場する殷の紂王の家来のことです。彼の父の蜚廉は走ることに長け、悪来は剛力であったのでともに寵愛されましたが、人を讒言し中傷することが巧みで、国政を壟断しました。周の武王が殷の紂王を討伐した際、悪来はともに誅殺されたといいます。承久の乱に勝利して国政を取り仕切っていた北条氏を彼になぞらえたものでしょうか。

 坂上田村麻呂が「鬼退治をした」という話は、平安時代以前の文献には見られませんが、鎌倉時代後期に編纂された『保元物語』においてはこう記されています。「古にその名を聞いた田村・利仁が鬼神をせめ、頼光・保昌が魔軍をやぶったのも、天子の勅命や神力を先として武威の誉を残したのである」。利仁は前述の藤原利仁で、頼光・保昌は酒天童子退治で知られるあの2名です。具体的にどんな鬼神・魔軍と戦ったのかは記されませんが、鎌倉時代にはそのような伝説が流布していたのでしょう。

 鎌倉時代末期、元亨2年(1322年)に編纂された仏教通史『元亨釈書』においては、清水寺の延鎮という僧侶の伝に「坂将軍田村」が「奥州の逆賊高丸」と戦ったと記されています。それによると、高丸は奥州どころか坂東をも攻め取り、駿河国を落とし、清見関(静岡市清水区興津)を目指して攻め上がって来ました。坂将軍が出陣すると高丸は奥州へ退き抵抗しましたが、神楽岡という場所で官軍の矢が尽きて不利となります。

 この時、小さい比丘(僧)と男子が現れて矢を拾い坂将軍に与えたので、将軍がその矢を放つと高丸を討ち取ることができました。将軍は高丸の首級を得て都に戻り、清水寺を訪れて僧の延鎮に「このような不思議があった」と仔細を語ったところ、延鎮は勝軍地蔵と勝敵毘沙門天の像を示しました。将軍がこれを観ると、矢傷や刀傷がついており、脚は泥土にまみれていたので、「この両尊のご加護であったか」と悟ったといいます。

 高丸と悪路王・赤頭らは別の存在かと思われますが、時代が下ると混同され、田村麻呂が戦った逆賊・朝敵、ひいては鬼神・魔王とされていきます。南北朝時代には「悪事の高丸」、室町時代には鈴鹿山の「大嶽丸」なる鬼神が説話中に出現し、田村麻呂の鬼退治伝説が全国に広まっていきました。

◆鬼◆

◆丸◆

【続く】

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三宅つの
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