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【つの版】邪馬台国への旅12・倭地の習俗02

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

引き続いて倭地の習俗を見ていきます。日本人から見れば珍しくないことでも、文化が違う外国人から見れば珍しいこともあるでしょう。現代から見ればびっくりするようなこともありますが、社会正義戦士やマナー講師と化して目くじら立てないで下さい。未来人が現代日本を見れば驚くはずです。

◆涼◆

◆日◆

住居

有屋室、父母兄弟臥息異處。
屋根のある家があり、父母兄弟で寝床を別にしている。

当たり前のようですが、意外と当たり前ではありません。韓国西部の馬韓は「すみかは草で屋根を葺いた土の家で、形は塚のよう、出入口は上にある。一家全員がその中におり、長幼男女の別がない」という有様ですし、満洲東部の挹婁は「常に穴居し、大きな家は深さが梯子を九つ重ねるほどあり、多いほどよしとする」「人々は不潔で、中央に便所を作り、その周囲に住む」という有様です。魏志東夷伝にそう書かれています。

とはいえ、この時代の倭地の住居は大概が竪穴式住居です。間仕切りがあったか知りませんが、地面に茣蓙程度は敷いたでしょう。豪族(大人)や渡来人ならもう少しマシな家に住んだでしょうか。高床式倉庫は穀物を湿気や鼠から守るための倉庫や、穀物神を祀る神殿で、基本的には人間が住む建物ではありません。東南アジア等には高床式住居に住む民族もいます。

朱丹

以朱丹塗其身體、如中國用粉也。
朱丹をその身体に塗ることは、中国で白粉(おしろい)を用いるようだ。

「朱丹」とは赤色(朱色)の顔料で、辰砂(丹砂、朱砂、硫化水銀)やベンガラ(酸化鉄、赤土)、鉛丹(四酸化三鉛)などです。ベンガラは安価無毒ですが、辰砂や鉛丹は高価で毒性もあります。特に辰砂は「其山有丹」とあり、古くから伊勢・大和・阿波などで採掘・使用されてきました。邪馬臺國の主要な産品のひとつは辰砂であったようです。

生者の化粧だけでなく死者にも大量の朱丹が施され、古墳や棺の内側に塗られました。赤色が血液や生命を表すと考えられたのでしょう。チャイナでは不死をもたらす神仙の秘薬(金丹)、イスラム世界や欧州では「賢者の石」として珍重されたものの、大量に摂取すると水銀中毒を起こして死にます。

『続日本紀』文武2年(698)9月乙酉条に「令近江國獻金青。伊勢國朱沙雄黄。常陸國、備前、伊豫、日向四國朱沙。安藝長門二國金青緑青。豊後國眞朱」とありますから、日向や豊後でも朱沙(朱砂)や真朱は産出したようですが、産出量は伊勢が特に多かったようです。大和では宇陀や吉野、紀伊では高野山付近で産し、各地に「丹生」という地名や神社があります。

辰砂の歴史に関しては様々な研究があります。九州の古墳などに塗られているのはベンガラが多いようですが、糟屋郡志免町の亀山古墳内部には大量の朱(辰砂)が塗られています。国産でしょうか輸入品でしょうか。奈良・平安時代には鉛丹が建物に塗られました。

◆辰◆

◆砂◆

食器と食事

食飲用籩豆、手食。
飲食には籩豆(高坏)を用い、手掴みで食べる。

豆(とう)とは豆(まめ)ではなく、木製(青銅製もありますが)高足食器=高坏(たかつき)を意味する象形文字で、籩(へん)は竹製の豆をいい、焼き物の豆は登と書きます。日本では弥生時代に出現し、穀物を盛り付けて食べたり供えたりしました。海外から伝わったのでしょう。

籩豆は供物を乗せる祭具として祭祀の象徴・代名詞となりました。『論語』泰伯には、孔子の弟子・曾子の言葉として「君子が尊ぶものは三つある。容貌を整えれば侮られず、顔色が正しければ信頼され、言葉遣いをよくすれば中傷されない。籩豆の事(儀式の細かい手順)については専門家に任せろ」とあります。マナーとはそうしたものです。

取り分け用の匙や儀礼用の箸はあったようですが、食事はやはり手掴みだったようです。最近はCORONAとかあるのでうるさくなりましたが、スシやおにぎりだって手掴みでしたしいいでしょう。箸を使う文化圏は東アジアと東南アジアだけで、現代でも世界人口の4割以上は手食文化です。

喪儀

儒者は喪儀(葬儀は喪儀の一部)を司るという集団から発生したこともあり、喪儀について特にやかましいマナー講師野郎どもです。考古学的にも墓は重要な歴史資料であり、その祭儀には当時の文化や価値観が現れます。

埋葬

其死、有棺無槨、封土作冢。
人が死ぬとに収められるが、(棺を収める木の外箱)はなく、土を盛って塚を作る。

土葬です。卑彌呼も死後に「大きな塚」に埋葬されたとあり、この頃から前方後円墳が出現して全国へ広まり、弥生時代は古墳時代に移り変わります。遺骸をただ埋葬するのはしのびないというので棺に収めますが、チャイナでは「槨(かく)という外箱がないと失礼だ」とマナー講師野郎が言い出したのでそうします。倭地にもこの槨があるかないかで論争になったそうですが、どうでもいいのでスルーします。なお、夫余でも棺があって槨がなく、馬韓には槨があって棺がなかったそうです。

殯と禊

始死停喪十餘日。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
死ぬと十余日の停喪(殯)を行う。その間は肉を食べず、喪主は哭泣するが、他人はその傍で歌舞し飲酒する。埋葬が終わると、一家で水中に入って体を洗う(禊)が、中国でいう練沐(練祭[一周忌]の時の沐浴)のようだ。

(もがり)と(みそぎ)です。儒教は東アジアの喪祭儀礼から発展した宗教であり、古代の呪術的世界と深く関わっています。こうした倭人の儀礼がいつからあるのかわかりませんが、外来文化の影響もあるでしょう。

持衰

其行來渡海詣中國、恆使一人。不梳頭、不去蟣虱、衣服垢汙、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。
倭人が海を渡って来て中国(帯方郡や楽浪郡、あるいは弁韓など海外諸国)と往来する時は、常に一人を選ぶ。彼は頭に櫛を入れず、シラミを取らず、衣服は垢で汚れたままにし、肉を食べず、婦人に近寄らず、喪に服する人のようである。これを名づけて持衰という。もし旅行が無事安泰であれば、共に生口(奴隷)や財物を与える。もし病気や災難に遭った場合、これを殺そうとし、「持衰がつつしまなかったからだ」という。

恐るべき人間スケープゴートの風習です。海を越える長旅は非常に危険で命がけだったため、このような呪術も存在したのです。持衰とは倭語ではなく中国語で、日本ではなぜか「じさい」と読みますが、呉音だと「じすい」、漢音だと「ちすい」です。「衰」とは儒教における喪服のことで、服喪してやつれたさまを衰(おとろえる)といいます。服喪期間を終えて喪服を脱ぐのを「解衰」というため、服喪の禁忌を守り続けることで呪力を強めようとしたのでしょう。こうした呪術は世界的に見られます。

大林太良『邪馬台国』によると(彼は北部九州内陸部を邪馬台国としていますが)、インドネシアのモルッカ諸島セラム島東部のイル地方に似たような習俗があり、選ばれるのは少女が多いといいます。彼女は船に乗らず陸におり、家の外に出ることも含めて厳しい禁忌を守らされますが、船に何か悪いことがあれば彼女のせいにされ、逆に彼女が病気に罹ったり死んだりすれば船の方にも災難が起きるといいます。とすれば、持衰も一緒に船に乗るのではなく、陸地に留まっていたのでしょうか。

鉱物

出真珠、青玉。其山有丹。
真珠や青玉(翡翠)を産出する。山には丹がある。

倭人は縄文時代から海や湖に潜り、真珠(白珠)を採りました。翡翠や朱丹(辰砂)も古くから採掘されており、臺與は白珠や青大句珠(勾玉)を晋へ朝貢しています。翡翠は玉(ぎょく)としてチャイナで珍重されますし、辰砂は上記のように不老不死の妙薬として重要視されました。弁韓で鉄を買う時や、帯方郡・楽浪郡へ訪問する時も高値で取引されたでしょう。持ち運びも楽です。(朱丹は魏晋への朝貢品に含まれていないっぽいですが)

なお魏から卑彌呼へ金印や銅鏡などと共に贈られた品物の中に「真珠・鉛丹各五十斤」とありますが、これはパールではなく「真朱(辰砂)」のことのようです。交易立国の弁韓はともかく、チャイナとしては友好関係にあって遠方から朝見に来てくれれば内外への自らの権威付けとしては充分であり、経済的に倭地の産物を絶対必要としていたわけではありません。

ここには挙げられていませんが、他に輸出されたものには生口(捕虜、奴隷)がいます。倭國王帥升らは生口160人を後漢に献じていますし、卑彌呼や臺與も魏晋に男女の生口を献じました。戦闘での捕虜や犯罪者が自由を剥奪され、奴隷身分に落とされたものでしょう。

植物と動物

其木有柟杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香。其竹筱簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。有獮猴、黑雉。
木には柟(タブノキ)、杼(トチノキかシイ)、豫樟(クスノキ)、楺(ボケ)、櫪(クヌギ)、投(被、スギかカヤかコウヤマキ)、橿(カシ)、烏號(ヤマグワ)、楓香(フウ、オカツラ)がある。竹には筱(篠竹)、簳(矢竹)、桃支(桃枝竹、布袋竹か)がある。薑(ショウガ)、橘(タチバナ)、椒(サンショウ)、蘘荷(ミョウガ)があるが、その滋味を知らない。獮猴(ニホンザル)や黑雉(キジ)がいる。

樹木に関してはいくつか比定がありますが、おおむね常緑の広葉樹が多く、照葉樹林を形成します。トチノキやシイ、クヌギやカシなどは実(トチやドングリ)を食用にできますし、船や家や棺を作るのにも木材は必要です。

『日本書紀』神代巻の一書によると、素戔嗚尊は「韓には金銀があるのに、この国には浮く宝(船)がない」といい、体毛をむしって樹木を産みましたが、ヒゲはスギ、胸毛はヒノキ、尻の毛はコウヤマキ(柀)、眉毛はクスノキになりました。そして「スギとクスノキは船とし、ヒノキは宮を作る材とし、コウヤマキは棺にせよ」といい、息子の五十猛命らに命じて全国各地に植林させたといいます。実際コウヤマキは古墳時代の近畿以西で棺に使われており、百済の武寧王の棺にも倭地特産のコウヤマキが使われています。

サンショウは縄文時代から食用にされていますし、ショウガやミョウガはこの頃持ち込まれたようなので食用にしていたはずですが、あまり美味しくはなかったのでしょうか。タチバナは垂仁天皇の末に田道間守が常世国から持ち帰ったといいますが、実際は古くから日本に自生しています。

動物は前回やりました。サルやキジは半島や大陸でも珍しくなさそうです。木材や植物もわざわざ輸出するほど珍しくもないでしょう。クマやシカやイノシシは見なかったのでしょうか。

卜占

其俗、舉事行來、有所云為、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜。其辭如令龜法、視火斥占兆。
その習俗では、事業を始める時や旅行に出る時に心配することがあれば、すなわち骨を灼いて卜(うらな)い、吉凶を占って、まずその結果を告げる。その辞は令亀(命亀)法のようで、火による裂け目を視て兆しを占う。

骨や亀甲を灼いて、その生じた裂け目で吉凶を占うことは、チャイナでは殷の頃から盛んに行われました。倭地では鹿の肩甲骨を灼いて占う法があったようです。亀卜は漢代に廃れましたが、日本には奈良時代に伝わって卜部氏の秘伝とされ、現代でも大嘗祭の斎田点定の儀に際して亀卜が行われます。令亀、命亀とは、亀甲を灼く前に「○○について問う」と占いの内容を言い聞かせる(命令する)ことを言うそうです。詳しい人に任せます。

酒宴

其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當跪拜。
その会同する時や着席・起立の順序には、父子や男女の別がない。人は生来酒を嗜む。大人(豪族)を見ると敬い、ただ拍手して跪拝にあてる。

使者を歓迎して酒も振る舞われたでしょう。宴席でのマナーはまだそこまで厳しくないようです。当時の酒はどぶろくや練酒、口噛み酒の類で、透明な清酒や蒸留酒はまだチャイナにもありません。

弥生系日本人には下戸遺伝子(アセトアルデヒド脱水素酵素を作る遺伝子のうち分解能力が低い酵素を作るもの)があり、近畿や中部や山陽の人々は特に酒に弱く、遠ざかるほど酒に強い(渡来系の血が少ない)という研究結果があります。南チャイナやベトナムに多いので「弥生系日本人の先祖はここから来た」という説もありますが、ミャオ族など先住民にはむしろ少なく、中原から南下した古代の漢人である客家に多いともいいます。

なお「曹操が『九醞春酒法』という日本酒づくりの元になった技法を開発した」という俗説もありますが、実際は南陽の郭芝という人が持っていた技法です。それによって作った酒を曹操が漢の皇帝に献上し、その旨を上奏したというだけのようです。

寿命と暦

其人壽考、或百年、或八九十年。
倭人は長生きで、あるいは百年、あるいは八十年や九十年も生きる。

壽(寿)も考も「長生き」のことです。「寿命を考える」ではありません。

現代日本ならいざしらず、古代にこれほど長生きする老人は珍しかったでしょうが、ラムセス2世や呉の呂岱、交州の士燮、高句麗の長寿王など90歳以上生きた古代人はいることはいます。多産多死で乳幼児死亡率が高いから平均寿命が短いだけで、長生きする人はいたのです。とはいえ当時の倭地に正確な年齢を書き記した戸籍があったとも思えませんし、海外の使者に倭地の凄さをアピールするため、年寄りを呼び集めただけかも知れません。

なお、裴松之の注に「魏略曰、其俗不知正歲四節,但計春耕秋收爲年紀(魏略にいう、その習俗は正しい歳や四つの季節を知らず、ただ春に耕し秋に収穫することを年紀とする)」とあります。このことから「倭人は春と秋にそれぞれ歳を数えたから年齢が二倍なのだ」という「二倍年暦」を唱えた人(例の古田武彦氏)もいますが、じゃあ百歳の老人だと言って五十そこらのおっさんを見せられた使者はどう判断したのでしょうか。古事記や日本書紀の上古天皇の年齢が長いのは、単に編纂者が適当に誇張し引き伸ばしただけであって、ありもしない暦を用いていたからではありません。思いつきで憶測を述べる前に常識で判断して下さい。

一夫多妻

其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妬忌。不盜竊、少諍訟。
その習俗では、國の大人(豪族)はみな四人や五人の妻を持ち、下戸(下級階層)もあるいは二人や三人の妻を持つ。婦人は淫らでなく、やきもちを焼かない。窃盗もせず、諍いや訴訟は少ない。

近現代日本では一夫一妻制(単婚)が法律で規定されており、重婚は犯罪ですが、子孫繁栄のために一夫多妻を是とする社会は歴史的にも珍しくありません。一妻多夫や多妻多夫も見られます。未開野蛮な文化と断ずることは簡単ですが、それも一元的な価値観ではないでしょうか。まあ実際は経済的な問題や人間関係の難しさから一夫一妻が多かったようですが。

なお後漢書では「その國には女子が多い」という文言を付け加え、『梁書』『隋書』などもこれを採用していますが、魏志倭人伝では特にそうは言っていません。戦争などで男性人口が減少しているのであれば、そういう状態も一時的にはあったでしょう。古代のアテナイでは人口減少を食い止めるため一夫多妻制度が議決されており、ソクラテスは二人の妻の間に三人の息子を儲けています。

法律

其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。
法を犯した場合、軽い者はその妻子を没収し、重い者はその門戸(家族)及び宗族(一族)を滅ぼす。

窃盗や訴訟の話が出てきたため、法律の話に繋がります。共同体には法律があり、犯罪者は罰せられます。しかしここでは財産による賠償や当人の身体の禁錮では済まされず、家族や一族にも累が及びます。没収された妻子は有力者の奴隷(生口)とされたのでしょう。貧乏人でも重犯罪者は一族郎党皆殺しとなれば犯罪を躊躇うでしょうし、家族も必死に説得したでしょう。現代に当てはめると大変なことになりますが、実際社会的に死にます。

格差と交易

尊卑、各有差序、足相臣服。収租賦。有邸閣。國有市、交易有無。使大倭監之。
身分の上下によっておのおの差別・順序があり、互いに臣服するに足りる。地租や賦税を収める。邸宅や楼閣がある。國には市場があって、有るものと無いものの交易を行う。大倭(倭人の有力者)がこれを監督する。

國があり、法律や秩序があり、身分があり、税金や商売があります。狩猟採集時代ならともかく定住して農耕や交易を行うとなると、貧富や身分の格差はどうしても生まれます。一番下に生口(奴隷)がおり、その上に下戸(下級階層)がおり、ムラやクニをまとめる大人(豪族)がいて、さらに王や官を頂くという社会構造が見えてきます。

これに続いて「一大率」の話がありますが、伊都國の時にやりましたので繰り返しません。倭國連合の北部九州における総督です。

下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、為之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。
下戸と大人が道路で相逢うと、(下戸は)尻込みして(道を譲り、道端の)草むらに入る。(下戸が大人に)ことばを伝え物事を説明する時は、あるいはうずくまり、あるいはひざまずき、両手を地につけて恭順・敬意の態度を示す(土下座)。対応する声を「噫(上古音*qɯ、ないし*qrɯːɡs)」といい、中国語でいう「然諾(わかりました)」のようである。

酒の席では拍手で済みましたが、道で出会うとこうしなければなりません。逆らえば家族ごとムラハチかテウチです。江戸時代やネオサイタマとあまり変わりません。「噫」は「ああ」という溜息や驚きの声を表す文字ですが、たぶん「アッハイ」とか言ってるのでしょう。だいたいわかります。

◆噫◆

◆噫◆

長々とやりましたが習俗はこんなところです。次はいよいよ卑彌呼について……その前の「倭国乱」について、見ていくことにしましょう。

【続く】

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