マガジンのカバー画像

つのpedia

628
いろいろな資料集です。ご自由に活用して下さい。
運営しているクリエイター

#中世

【つの版】日本刀備忘録35:田村将軍

 ドーモ、三宅つのです。久しぶりに前回の続きです。  酒呑童子の出生地が越後とされた理由は、結局よくわかりません。八岐大蛇は高志の出身ですし、伊吹山や戸隠山からも東北(鬼門)にありますし、現地に伝わっていた「鬼子」の伝説が酒呑童子と結びつけられた、と見るのが妥当なところでしょうか。弥彦山の東北、蝦夷の地にも多くの鬼たちがおり、戸隠山や伊勢の鈴鹿山にも鬼女たちがいたといいます。それぞれの伝説は武士や刀剣とも関わりますので、引き続いて見ていきましょう。 ◆刀◆ ◆剣◆ 田

【つの版】日本刀備忘録32:宝剣還海

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  鎌倉時代前期、近江守護に討伐された柏原弥三郎は、後世に伊吹山の神と結び付けられて「変化の者」=鬼となりました。さらに酒天童子や八岐大蛇とも関係付けられ、酒天童子の父であるとの伝説も生じることになります。 ◆龍◆ ◆王◆ 伊吹童子 室町時代には『御伽草子』と総称される物語集において、伊吹山の弥三郎と酒天童子が結び付けられました。ここでの弥三郎は鎌倉幕府の御家人ではなく、代々伊吹山の神を祀る氏族の末裔とされています。しかしこの神

【つの版】日本刀備忘録18:観応擾乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  正平3年/貞和4年(1348年)、足利尊氏の執事・高師直は楠木正成の子の正行・正時兄弟を敗死させ、南朝の吉野行宮を焼き払います。正行らの弟・正儀が反撃して師直らを撤退させたものの、南朝の命運は風前の灯火となりました。しかし歴史は思わぬ方向へ進み始めます。 ◆逃◆ ◆若◆ 幕府内紛 高師直らの活躍は、ライバルの足利直義とその一派を苛立たせました。先に河内で正行に敗れた細川顕氏・畠山国清らは直義派で、師直派から敗軍の将としてナメ

【つの版】日本刀備忘録16:大湊出港

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政は2年で崩壊し、足利尊氏は持明院統の天皇を擁立して南北朝時代が到来しました。治承・寿永の乱は6年で終わり、奥州合戦は2ヶ月、承久の乱は1ヶ月で終わりましたが、南北朝の戦乱は60年近くも続くことになります。経緯を見ていきましょう。 ◆great◆ ◆escape◆ 大湊出港 復習しましょう。南朝の延元3年/北朝の建武5年(1338年)、南朝を代表する名将であった北畠顕家と新田義貞が相次

【つの版】日本刀備忘録15:大太刀伝

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政は2年で崩壊し、足利尊氏は持明院統の天皇を擁立して南北朝時代が到来しました。戦乱により刀剣・武具の需要は増大し、各地に新しい刀工の流派が現れます。またこの時代には、戦い方や武具にも大きな変化が生じました。 ◆刀剣◆ ◆乱舞◆ 武具変遷 古来戦場の主役である騎馬武者は、長弓を馬上から射る「弓馬の道(騎射術)」に習熟した弓騎兵で、太刀を振るっての近接戦闘も行ったものの、主力武器はあくまで

【つの版】ウマと人類史EX42:鎌倉幕府

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  義仲、平家、義経、そして奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、日本全国の武士を武力と政治力によってまとめ上げ、天下統一を果たします。しかし彼の上には院や天皇がいます。武家と朝廷の関係はどうなるのでしょうか。 ◆鎌◆ ◆倉◆ 建久新制 文治5年(1189年)11月3日、頼朝に対して朝廷より奥州征伐を称える書状が下され、従二位から正二位に昇格し、按察使への任官と勲功のあった御家人の推挙を促されます。按察使とは奈良時代に唐の制度を真似て設置

【つの版】ウマと人類史EX41:奥州合戦

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  平家追討の総大将であった源義経は、兄頼朝と仲違いして都を去り、吉野山に潜伏したのち、文治3年(1187年)に奥州藤原氏のもとへ落ち延びました。頼朝は義経追討のため、奥州への遠征を開始します。 ◆炎◆ ◆立◆ 平泉三代 まずは奥州藤原氏について振り返ってみましょう。寛治元年(1087年)に後三年の役が終わり、源義家の支援を受けて清原氏を滅ぼした藤原清衡が陸奥国(奥州)と出羽国(羽州)の覇者となります。彼は摂関家に貢納して地位を

【つの版】ウマと人類史EX40:文治勅許

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  元暦2年(1185年)2月、源範頼率いる鎌倉軍は北部九州を制圧し、平家を瀬戸内海に封じ込めます。京都にいた源義経は寡兵を率いて摂津から阿波・讃岐へ向かい、平家の本拠地・屋島を奇襲して西へ撤退させます。平家は制海権を失って海上に漂流し、長門国の壇ノ浦で最後の時を迎えるのです。 ◆平◆ ◆家◆ 平家滅亡 讃岐を追われた平家軍は、安芸国厳島を経て長門国の赤間関(関門海峡)に浮かぶ彦島に逃亡しました。義経は朝廷や頼朝・範頼に報告した

【つの版】ウマと人類史EX39:屋島合戦

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  寿永3年(1184年)正月、木曽義仲は源頼朝が派遣した義経・範頼および甲斐源氏の連合軍に敗れて戦死します。後白河院は頼朝と手を結び、義経らに改めて平家追討を命じました。ついに源平合戦は最終段階へ入ります。 ◆鵯◆ ◆越◆ 鵯越逆落 この頃、義仲と頼朝の争いに乗じて平家は勢力を盛り返し、瀬戸内海を制圧して摂津国福原(現兵庫県神戸市兵庫区・中央区)まで戻っていました。同時代史料である九条兼実の日記『玉葉』には「官軍(源氏連合軍)

【つの版】ウマと人類史EX38:寿永宣旨

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  寿永2年(1183年)6月、北陸道から攻め上った木曽義仲は平家軍を打ち破って京都に迫り、平宗盛らは安徳天皇と三種の神器を携えて摂津福原へ逃走しました。義仲は後白河院を奉じて上洛し、平家追討を命じられます。 ◆東海◆ ◆道中◆ 新主践祚 平家を駆逐して上洛した義仲でしたが、ここで後白河院との対立が生じます。平宗盛らは福原をも捨てて瀬戸内海を西へ逃げ、九州・大宰府へ向かっていましたが、天子と神器を擁する彼らが官軍を称すれば問題で

【つの版】ウマと人類史EX34:以仁王乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  平清盛と平家一門は後白河院派と協力して国政を牛耳り、日宋貿易によって巨万の富を貯えました。しかし後白河院派は次第に平家と対立するようになり、両者の亀裂はやがて臨界点を迎えます。 ◆鎌◆ ◆倉◆ 院政停止 鹿ヶ谷の陰謀事件により、平家の力は後白河院派を圧倒します。平家は高倉天皇とその皇太子・言仁親王を擁し、院の近臣を朝政から排除していきました。後白河院は平家との協力関係を修復しようとつとめますが、治承3年(1179年)6月に清

【つの版】ウマと人類史EX33:平氏政権

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1159年の平治の乱において、最終的に勝利したのは平清盛でした。朝廷も後白河院も清盛の軍事力と経済力を頼りとし、彼は正三位・参議に叙せられて武家として初めて公卿に列します。ここに清盛一門による日本最初の武家政権、平氏政権への道筋が開けたのです。 ◆清◆ ◆盛◆ 太政大臣 永暦元年(1160年)11月に二条天皇の母・美福門院が崩御すると、天皇は清盛の継室(後妻)である平時子を乳母(養育係)とし、清盛を自らの後ろ盾として厚遇しま

【つの版】ウマと人類史EX32:平治之乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  保元元年(1156年)の「保元の乱」は、故鳥羽法皇の近臣と藤原忠通が後白河天皇を担ぎ上げ、崇徳上皇と藤原頼長一派を排除したものでした。これにより摂関家は勢力を失い、後白河天皇の近臣・信西が権力を掌握して国政改革を行います。これが平治の乱の火種となりました。 ◆清◆ ◆盛◆ 保元新制 保元の乱に勝利した後白河天皇は宣旨(略式の勅令)を発布し、国政改革を宣言します。その主な内容は「荘園整理令」でした。  743年の墾田永年私財

【つの版】ウマと人類史EX31:保元之乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  伊勢平氏の正盛・忠盛は白河院・鳥羽院に取り立てられて急激に出世し、西国の受領を歴任して南宋との交易路を掌握、圧倒的な財力を獲得します。これに対し河内源氏の為義は摂関家を頼りますが、摂関家では忠通と頼長の兄弟対立が始まり、保元の乱の火種となりました。 ◆鎮西◆ ◆八郎◆ 父子対立 仁平3年(1153年)に平忠盛が逝去し、子の清盛が跡を継ぎます。彼は時に36歳、7年前から正四位下・安芸守に任官されて瀬戸内海航路を掌握しており、父