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【つの版】ウマと人類史EX38:寿永宣旨

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 寿永2年(1183年)6月、北陸道から攻め上った木曽義仲は平家軍を打ち破って京都に迫り、平宗盛らは安徳天皇と三種の神器を携えて摂津福原へ逃走しました。義仲は後白河院を奉じて上洛し、平家追討を命じられます。

◆東海◆

◆道中◆

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Map-of-Japan-1183-Heian-Genpei-War.png

新主践祚

 平家を駆逐して上洛した義仲でしたが、ここで後白河院との対立が生じます。平宗盛らは福原をも捨てて瀬戸内海を西へ逃げ、九州・大宰府へ向かっていましたが、天子と神器を擁する彼らが官軍を称すれば問題です。後白河院は宗盛に返還を求めますが不調に終わり、やむなく新たな天子を践祚(即位)させることとします。亡き高倉院には4人の皇子がおり、安徳天皇と異母弟(二之宮)の守貞親王は平家に連れ去られていますから、都に残るのは第三皇子(三之宮)の惟明親王と第四皇子(四之宮)の尊成親王です。

 これに対し、義仲は自らが推戴する北陸宮(以仁王の子で後白河院の孫)を即位させるよう比叡山の僧侶を介して申し立てます。以仁王は逆賊平家を打倒するため最初に立ち上がり、その令旨が天下の反平家勢力に火を点けたのですし、年齢的にも北陸宮は推定18歳で幼主よりはよさそうではありますが、後白河院や朝廷は「皇族や貴族でもない武家が天子の擁立に口出しするとは何事か!」と反発し、黙殺しました。天皇(上皇)の子が2人もいるのに親王でもない王の子を擁立するというのも問題ですし、義仲に権力と権威が集中して次の清盛になりかねません。結局は卜占などによって四之宮が選ばれ、4歳で神器なしに践祚しました。これが後鳥羽天皇です。平家が奉じる安徳天皇は健在ですから、2人の天皇が並立することとなりました。

 また都や畿内は飢饉や戦乱で食糧事情が悪化しており、そこへ疲弊した遠征軍が多数居座ったため、彼らによる現地調達が横行します。義仲は諸勢力の混成軍である彼らを統制し切れず、治安が極度に悪化しました。後白河院は義仲を呼びつけて叱責し、剣を授けて平家討伐を再度命じます。9月に義仲は腹心の樋口兼光を京都へ残して出陣し、播磨へ向かいました。

 この頃、平家は豊後の緒方氏らに追われて九州からも駆逐され、阿波・讃岐を制圧していた田口成良を頼って四国へ上陸します。宗盛・成良らは讃岐国の屋島(現香川県高松市屋島)に行宮を建設させ、ここを拠点として抵抗を続けることになります。屋島は663年の白村江の戦いの後、天智天皇によって瀬戸内海を監視する屋嶋城が築かれた天然の要害です。この頃には伊予の河野氏も劣勢となり、頼朝の弟で土佐に流されていた希義も始末されていますから、四国の豪族はおおむね平家側についています。

 義仲は播磨から山陽道へ兵を進め、源(矢田)義清を代官(総大将)として備中国水島(現岡山県倉敷市玉島)へ派遣し、渡海を準備させます。ここは高梁川の河口に位置し、島伝いに南下すれば讃岐へ渡ることができます。平家はこれを知るや重衡率いる水軍を派遣し、閏10月1日(新暦11月下旬)に水島で合戦となりました。長く瀬戸内海を制していた平家は海戦に長け、軍船をつなぎ合わせて陣となし、敵軍に矢を射掛けつつ船から騎兵を出撃させて上陸します。対する義清は下野生まれの上野育ち、同行する海野・高梨・仁科ら諸将も信濃の出で海戦に慣れず、惨敗を喫して討ち取られます。この勝利で平家は勢力を盛り返し、義仲軍は劣勢となりました。

寿永宣旨

 義仲が西国へ出陣した頃、後白河院は密かに坂東の頼朝と連絡していました。頼朝は鎌倉にとどまり、武田信義ら甲斐源氏と連携して平家勢力を討伐しつつ東海道へ軍勢を派遣していましたが、常陸・下野・上野の諸勢力は頼朝に従わず、甲斐源氏や美濃・近江源氏ともども義仲と連携するようになります。頼朝は初期に挙兵したことで朝廷から功績は認められたものの、流人のままで任位任官もされず、武家に対する求心力を失いつつありました。

 義仲の嫡男・義高は、この頃に頼朝の長女・大姫の婿として鎌倉に赴き、講和のための人質となっています。

 一方の後白河院や朝廷は、義仲に対して不満が鬱積していました。彼の支配地である北陸・信濃・上野・下野、甲斐源氏の支配する東海道諸国には、院や近臣、貴族や寺社の所領や荘園が多くありましたが、義仲らは軍事費にあてるためそれらの収穫物を横領しており、都には年貢が運上されない状態が続いていました。その義仲軍も畿内や山陽・山陰で食糧を現地調達せざるを得ず、物資の欠乏は文字通りに死活問題です。そこで頼朝は「東国の年貢や官物を都へ送るため、荘園や国衙領の領有権をもとの所有者に戻すように命じる宣旨を賜りたい」と願い出、受理されました。

 寿永2年(1183年)10月、朝廷は頼朝に宣旨を授け、東海道・東山道諸国の荘園・国衙領をもとの所有者に戻し年貢等を納入すること、これを実行する役目を頼朝に命じることを布告しました。また頼朝は流刑を解除されて従五位下・右兵衛権佐うひょうえのごんのすけの官位に戻され、東国における沙汰権(命令権)を授与されます。義仲への配慮により北陸道や畿内に対しては除外されましたが、近江・美濃・信濃・上野・下野は東山道ですし甲斐源氏は東海道西部を抑えていますから、本来は頼朝が実効支配する範囲への命令であったかも知れません。しかし朝廷から公式に授けられた以上、これは以仁王の令旨に勝る公的な権威となります。

 頼朝は弟の義経を代官に任じて数百騎を授け、文官の中原親能(大江広元の兄)らとともに「東国の年貢を納入する」と称して京都へ向かわせます。これに尾鰭がついて噂が広まり、「『頼朝の弟の九郎が大将軍となり、数万の兵を率いて上洛を企てている』と藤原秀衡が飛脚で知らせて来た」と京都に伝わりました。仰天した義仲は閏10月15日に少数の兵を率いて京都へ飛び戻り、後白河院に激しく抗議して「頼朝追討の宣旨を賜りたい」と要求します。しかし源行家・土岐光長・興福寺の衆徒らが反対して兵は集まらず、11月に義経らは不破の関を抜けて近江国に入りました。平家はこの間に播磨まで進出し、義仲と不仲であった行家は朝廷の命令を受け、手勢を率いて平家討伐のために京都を離れています。

 後白河院や近臣らは、延暦寺・園城寺・光長・多田行綱らと手を組み、院の御所である法住寺殿に兵力を集めます。さらに義仲に対して「ただちに西へ向かい平家を討伐せよ。京都にとどまるなら謀反とみなす。頼朝と戦うなら宣旨に拠らず、義仲が勝手に戦え」と最後通牒を与えました。11月19日、怒った義仲は法住寺殿に集まった官軍を叩き潰し、天台座主の明雲や円恵法親王を含む百余人を討ち取って首を晒し、後白河院と後鳥羽天皇を幽閉しました。前関白の松殿基房は義仲と連携して政権を掌握します。平清盛と同じことをしでかしたわけで、逆賊呼ばわりされても文句は言えません。

 しかし同月末には行家らが播磨で平家軍に敗れ、海路で和泉を経て河内へ逃走します。東西を敵に挟まれた義仲は平家に和睦を打診しますが拒まれ、12月に後白河院を脅して院御厩別当(院の軍権を握る要職)に任じさせ、頼朝討伐の下文を出させます。翌寿永3年(1184年)正月には征東大将軍となり、官軍としての体裁を整えました。ただ敗戦や内ゲバで兵力は1000騎ほどに減少しており、近江・美濃・甲斐源氏も頼朝側についたため、京都を離れて北陸や東国に向かうことはできず、まずは敵を迎え撃つことにします。

生食磨墨

 義経は近江から伊勢に移動して兵を集め、事情を聞いた頼朝は援軍として別の弟の範頼を派遣し、近江国の瀬田に向かわせました。ここは琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る橋があり、京防衛の要です。義仲は兵を3つに分け、500騎を今井兼平に与えて瀬田を防がせ、300騎で南の宇治を守らせ、自らは100騎を率いて院の御所を守護しました。

 寿永3年正月20日、義経は甲斐源氏・遠江守の安田義定らとともに山城国田原から宇治川へ、範頼は一条忠頼(武田信義の子)らとともに瀬田へ侵攻します。兵力は義経が2万5000、範頼が3万といいますが眉唾もので、100分の1とすれば250騎と300騎です。これに甲斐源氏の兵力を加えれば義仲側よりは優勢だったでしょう。また範頼・忠頼は北陸への逃げ道を封鎖するためゆっくりと兵を進め、南の義経・義定らは義仲を追い出すため激しく攻め立てます。義仲軍は必死で宇治川の防衛線を守りますが打ち破られ、義経らは勢いに乗って京都へ進軍しました。

『平家物語』によれば、宇治川の合戦において義経側の武者・梶原景季佐々木高綱と先陣争いをしたといいます。景季は磨墨するすみ、高綱は生食いけづき(池月)という名馬にうちまたがり、矢の降り注ぐ中で宇治川を渡って一番乗りの功名を立てんとしますが、高綱は景季に「馬の腹帯が緩んでおるぞ」と声をかけ、景季が締め直している間に先へ進んだといいます。この2頭の馬は平家物語の流行とともに名馬の代名詞とされ、奥羽から薩摩まで全国各地に伝承があります。

 義仲は義経らを防ぎつつ、後白河院を奪取して北陸へ逃げようとしますが失敗し、瀬田の近くの粟津で今井兼平と合流したものの、範頼・忠頼に包囲され討ち死にします。享年31歳。後白河院へのクーデターから2ヶ月、上洛から半年足らずの天下でした。義経と範頼は後白河院に謁見し、義仲に代わって平家追討を命じられます。ここに鎌倉の頼朝政権は、平家・義仲に続く全国的な武家政権への道を歩み始めるのです。

◆進◆

◆撃◆

【続く】

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