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【つの版】ウマと人類史EX41:奥州合戦

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 平家追討の総大将であった源義経は、兄頼朝と仲違いして都を去り、吉野山に潜伏したのち、文治3年(1187年)に奥州藤原氏のもとへ落ち延びました。頼朝は義経追討のため、奥州への遠征を開始します。

◆炎◆

◆立◆

東北地方

平泉三代

 まずは奥州藤原氏について振り返ってみましょう。寛治元年(1087年)に後三年の役が終わり、源義家の支援を受けて清原氏を滅ぼした藤原清衡が陸奥国(奥州)と出羽国(羽州)の覇者となります。彼は摂関家に貢納して地位を認められ、正六位上を授かり陸奥押領使に任じられました。押領使は担当地域の警察・軍事権を持って治安維持を行う令外官、正六位は下国の国司級の位階(地下人)で、陸奥守や鎮守府将軍を上司とします。しかして現地の最有力者を差し置いては税金も集まりません。

 11世紀末頃、清衡は江刺郡豊田館から磐井郡平泉に本拠地を遷します。ここは北を衣川、東を北上川、南を磐井川に囲まれた地で、政庁となる平泉館を中核とし、中尊寺(多宝寺)や周辺市街地の造営も開始されます。奥羽では名馬や砂金が産出され、北方の蝦夷を介して遠くチャイナ(遼・宋・金)とも交易が行われ、平泉は莫大な富の集積地として繁栄し始めます。

 大治3年(1128年)7月、清衡が73歳で没すると、子の基衡が跡を継ぎました。彼は異母兄(母が清原氏)の惟常を攻撃・斬首して権力を握りますが、康治元年(1142年)に陸奥守・藤原師綱(院近臣)と公田検注(土地調査)を巡って諍いを起こし、家人の地頭大庄司・佐藤季春が兵を率いて合戦に及びました。しかし師綱は宣旨を盾に強硬姿勢を示し、季春はやむなく基衡の代わりに降伏して処刑されます。これに懲りた基衡は、翌年陸奥守となった藤原基成と友好関係を結び、院や朝廷と宥和することにします。

 基成は父忠隆以来の鳥羽院の近臣で、陸奥守と鎮守府将軍を兼任すること10年に及び、娘を基衡の子・秀衡に嫁がせています。これにより奥羽の支配は安定し、基衡は平泉に毛越寺など壮大な伽藍を建立しました。基成は仁平3年(1153年)末に都へ戻り、久寿2年(1155年)12月に民部少輔に補任されますが、翌保元元年(1156年)には保元の乱が勃発し、その翌年(1157年)には基衡が死去しました。さらに平治元年末(1160年)には平治の乱が起き、その首魁の信頼のぶよりが基成の異母弟であったため、基成は乱の終結後に連座して陸奥国へ配流されています。

 基衡の跡を継いでいた秀衡は舅の基成を手厚く遇し、政治顧問とします。基成の異母妹は関白・藤氏長者の近衛基実に嫁いでおり、この頃に息子・基通を儲けていたため、基成は摂関家と太いパイプを持っていました。平治の乱ののち政権を握った後白河院および平清盛とも貢納を通じて友好関係を築き、平泉は京都に次ぐ大都市として最盛期を迎えることになります。嘉応2年(1170年)5月、秀衡はついに従五位下・鎮守府将軍に叙任されました。

金売吉次

 平治の乱の時、源義朝の九男として生まれたばかりの義経(牛若丸)は、父が謀反人として討たれると母の常盤御前に連れられ、2人の同母兄・今若(全成)・乙若(義円)とともに大和国へ逃れました。のち母は大蔵卿の一条長成に再嫁し、牛若丸は京都北方の鞍馬寺の覚日和尚に預けられ、大日如来(毘盧遮那仏)にちなんで「遮那王」の稚児名を授かります。

 やがて彼は僧侶になることを拒んで寺を出奔し、承安4年(1174年)に元服すると平泉に身を寄せ、義経と名乗ります。彼の継父である一条長成は藤原基成の父・忠隆の従兄弟で、このツテを辿った可能性が高いでしょうが、『平治物語』や『平家物語』などの軍記物語では「吉次(橘次)」という奥州の金商人が手引したとされます。彼は奥州で産出する砂金を京都で商っていた人物で、鞍馬寺から遮那王を誘って奥州へ案内したといいます。彼の実在は定かでありませんが、そのような商人はいたことでしょう。『平治物語』ではのちに義経の郎党として活動した堀景光の前身であるとします。

 義経は藤原秀衡のもとで数年間匿われたのち、治承4年(1180年)に兄・頼朝が挙兵すると奥州を去って頼朝のもとへ赴きます。翌養和元年(1181年)、秀衡に対して頼朝追討の院宣が出され、従五位上・陸奥守に叙任されますが、秀衡は平家にも源氏にも味方することなく中立を保ちました。一方で平重衡により焼き討ちに遭った東大寺の再建勧進に際し、頼朝が金1000両を出したのに対して5000両を納め、畿内諸勢力との関係維持に努めます。

 頼朝は義経や範頼、甲斐源氏らを平家や義仲討伐に差し向けつつ、自らは鎌倉にとどまって坂東を離れませんでしたが、これは秀衡を警戒したためとされます。寿永元年(1182年)4月には「秀衡調伏」のため江ノ島に弁才天を勧請したとされ、同2年(1183年)10月には秀衡と佐竹隆義の存在を理由に上洛を延期しましたし、翌年には遠江まで進軍したものの、秀衡南下の急報を聞いて鎌倉に引き上げています。とはいえ秀衡は結局平家滅亡まで動かず、頼朝は秀衡の存在を理由に前線に向かわずに済んだとも言えます。

義経追討

 文治2年(1186年)、前年に平家を滅ぼして坂東から西国までを平定した頼朝は、寿永2年(1183年)10月の後白河院からの宣旨を持ち出し、「奥州は東山道のうちであるから、都へ貢納する馬と金は自分が仲介しよう」との書状を秀衡に送ります。これは、これまで頼朝の仲介なしで京都と直接交渉してきた奥州藤原氏の政権を、鎌倉の頼朝政権の下に位置づける屈辱的な申し出でしたが、秀衡は対決を避け、大人しく馬と金を送っています。

 翌文治3年(1187年)2月頃、義経は吉野山から奥州に逃れ、秀衡のもとに身を寄せます。秀衡はやむなく彼を受け入れ匿いますが、頼朝は4月に朝廷を通じて秀衡に圧力をかけ、「東大寺再建のため3万両の金を納めよ」云々と要請します。秀衡は求めに応じられない旨を伝えますが、疑いを深めた頼朝は9月に「秀衡入道は前伊予守(義経)を匿って反逆を企てている」との訴えがあったとして、詰問のための院庁外文を陸奥国に送らせました。

 この頃、65歳の秀衡は病に臥せっており、基成の娘が産んだ泰衡を嫡男(母太郎・当腹太郎)としていましたが、庶長子(父太郎・他腹之嫡男)である国衡は泰衡と対立しており、後継者争いは必至でした。秀衡は泰衡・国衡・義経を呼んで起請文を書かせ、「義経を主君として頼朝に対抗せよ」と命じます。また泰衡に家督を継がせ、国衡には泰衡の母(自らの正室)を娶らせ、彼女と基成を2人の後見人としたのち、10月末に逝去しました。

 翌文治4年(1188年)2月、頼朝は朝廷に「義経が平泉にいることが発覚した」と上奏し、まず秀衡の子らに義経追討の宣旨を下すよう要請します。朝廷はこれを受けて泰衡および基成に宣旨を下しますが、彼らは秀衡の遺命を盾に従いませんでした。義経も出羽に現れて鎌倉方と合戦するなど潜伏をやめ、朝廷と交渉しようとします。文治5年(1189年)、頼朝は「泰衡が義経の反逆に同心していることは疑いない」と上奏し、泰衡追討の宣旨を下すよう要請しつつ、奥羽へ密偵や工作員を送り込んで分断工作を行います。泰衡は疑心暗鬼に陥り、末弟の頼衡らを殺害するなど内紛を起こし始めました。

 同年閏4月末、泰衡は頼朝の圧迫に耐えかね、500騎をもって平泉北方の衣川館にいた義経主従を襲撃します。義経に従う郎党は武蔵坊弁慶ら10数騎に過ぎず、抵抗しますが衆寡敵せず討ち死にし、31歳の義経は妻子を殺して自害しました。義経は死なずに北方へ逃げ延び、蝦夷地や大陸へ渡ったという伝説も後に生じましたが、少なくともこれ以後義経が歴史の表舞台に立つことはありませんでした。義経の首は酒漬けにされて6月に鎌倉へ送られ、泰衡は恭順の意を示します。

奥州合戦

 しかし頼朝は強硬姿勢を崩さず、繰り返し泰衡追討の宣旨を求め、全国の御家人に動員を命じました。奥州藤原氏を温存しておけば朝廷や院と手を組んで鎌倉政権を挟み撃ちにしかねません。朝廷や院は「義経が討たれたことで問題は片付いた」として宣旨を出しませんでしたが、頼朝は大庭景義から「戦陣では天子の詔は聞かない。そもそも泰衡は源氏の家人であり、誅伐に勅許は不要である」と進言を受け、7月19日に宣旨なしに出陣します。先祖の源義家が後三年の役を「私戦」とみなされたことを逆手に取ったのです。

 頼朝の強硬姿勢に奥州は動揺し、泰衡は反乱を企てたとして異母弟の忠衡・通衡を誅殺しますが、全国から召集された頼朝軍は内紛に揺れる奥州を押しつぶすほどの大軍でした。吾妻鏡には総勢28万4000騎とありますが、実数1/10としても2万8400騎です。動員令は薩摩・伊勢・安芸など西国にも及び、参加しない武者は所領を没収されたといいます。

 頼朝は畠山重忠を先陣とする大手軍を率い下野を経て内陸から、千葉常胤・八田知家率いる東海道軍は海沿いに奥州へ北上し、比企能員・宇佐美実政率いる北陸道軍は上野・越後を経て出羽へ進軍します。越後の城氏、常陸の佐竹氏らも従え、頼朝は悠々と下野・陸奥国境の白河の関を越えました。

 泰衡は陸奥国府・多賀城付近に陣取り、異母兄・国衡に2万の兵を授け、阿津賀志山(厚樫山、現伊達郡国見町)に防衛線を築いて守らせます。また姻族の佐藤基治を石那坂(現福島市松川町関谷)に置いて守らせますが、基治は鎌倉側の御家人・常陸入道念西とその息子たちに討ち破られます。念西らは功績によって陸奥国伊達郡を賜り、伊達氏を名乗ったといいます。江戸時代まで陸奥国の豪族・大名として続いた伊達氏の誕生です。

 8月7日に阿津賀志山の麓に到着した頼朝は、畠山重忠らに明朝の攻撃を命じます。重忠は夜のうちに人夫らに命じて敵陣の堀を土砂で埋めさせ、早朝に攻撃を開始しました。激戦は10日まで続きましたが、一ノ谷の合戦よろしく敵陣の背後から別働隊が攻撃をかけ、奥州軍は総崩れとなります。国衡は出羽へ逃げようとしますが和田義盛に討ち取られ、泰衡は平泉まで撤退しました。頼朝は12日に多賀城に入って東海道軍と合流し、出羽方面も13日には平定され、泰衡は平泉を焼き払ってさらに北へ逃亡しました。

 8月22日、頼朝軍は抵抗を受けることなく平泉に入ります。泰衡は赦免を求める書状を送りますが、頼朝はこれを無視し、9月2日に岩手郡厨川(盛岡市)へ進軍を開始します。泰衡は糠部郡(青森県東部)から夷狄島(北海道)へ渡ろうとしますが、9月3日に郎従の河田次郎に殺害され、6日に首級が頼朝のもとへ届けられました。頼朝は河田次郎を「主君を討った大罪人である」として斬首し、泰衡の首を晒しました。入念な下準備により奥羽は遠征開始から1ヶ月あまりでほぼ平定され、奥州藤原氏は滅亡したのです。

 頼朝は厨川まで北上し、降伏者を受け入れて赦免や本領安堵などの戦後処理を行います。泰衡追討の宣旨も後付で朝廷から届けられ、この合戦は朝廷公認の「公戦」ということになりました。また平泉まで戻ると葛西清重を奥州惣奉行に任じ、9月28日に鎌倉への帰還を開始しました。その後も反乱はありましたが、ここに源頼朝は薩摩・大隅から奥州に至る日本全国を武力によって平定し、平清盛も成し遂げなかった天下統一を実現したのです。

◆鎌◆

◆倉◆

【続く】

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三宅つの
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