見出し画像

アジアのエリート留学生が集まった洋館。『揚輝荘、アジアに開いた窓』上坂冬子

揚輝荘というのは、あのデパートの松坂屋の初代社長伊藤祐民(すけたみ:1878ー1940)が建てた別荘です。愛知の老舗呉服店・松坂屋にうまれた伊藤は、明治時代に渋沢栄一のアメリカ視察団に参加し、近代的なアメリカのデパートに感銘を受けて、松坂屋を株式会社にして、さらに新店舗を洋風のデパートにしたのだそうです。

その後、伊藤は自分の別荘として名古屋覚王山日暹寺に隣接していた約1万坪の土地を切り開いて洋館を建てました。完成したのが1919年(大正8年)。皇族や華族、政財界の著名人や外国からの来客をここで接待し、奥さんがなくなったあとは、伊藤がしばらく住んでいた時期もあったとのこと。

余談ですが、名古屋の覚王山日暹寺(現在の日泰寺)というのは、当時の暹羅(タイ)から日本に分骨された仏舎利を、宗派を超えて奉るために建てたお寺です。このあたりの日本仏教界のややこしい(けどおもしろい)話は、『誰も知らない『西遊記』:玄奘三蔵法師の遺骨をめぐる東アジア戦後史』に説明がありました。

もとい。伊藤は、この揚輝荘の広い敷地にその後もいろいろな建物を増築しましたが、のちに僧侶でビルマ独立運動家のウ・オッタマと出会ったことがきっかけになり、1936年以降、アジアからの留学生を受け入れる宿舎にしたそうです。

第二次世界大戦をきっかけに帰国者が相次ぐまで、揚輝荘では多くのアジアの国の留学生たちが生活を共にしたそうです。内モンゴル出身のウチリラト(本草閣鍼医)、中国出身の趙強(趙振英)や牛玉介、タイ出身のソンポンやスネー。中には、帰国後に自国の外交官になったチャムノンや技師になったウタイ、ダム建設技師になったブンソンがいました。

日本人の学生も宿舎として利用したようで、名古屋大学医学部教授になった井上俊や青木国雄、医師になった長与健夫などがいたそうです。彼らの青春の思い出話は、とても興味深いです。戦争に翻弄されたり、チャンスをつかんだり。人の数だけ物語があるのだということを、つくづく思わされます。

残念なのは、広大な揚輝荘の建物の多くが空襲で消失してしまったということ。戦後はアメリカ軍に接収され、その後は松坂屋の社員寮になったとか。それでも、いくつかの貴重な建築物や庭園が今も残っているのがすごいです。元はどれだけ広かったことか。

この本は、著者の上坂さんが、揚輝荘の元留学生たちにインタビューをして、それをもとに読みやすくまとめたものです。専門的な本というよりは、読み物という感じなので、もっと詳しい話を知りたい人は、揚輝荘の会編『揚輝荘と祐民』(風媒社、2008年)という本もあるとのこと。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?