人の愚かさと愛しさと。『狼王たちの戦旗』上(氷と炎の歌2)ジョージ・R・R・マーティン
ドラマの世界から原作の世界にはまりました。電子書籍割引セールのせいです。ステイホームや非常事態宣言では図書館も自由に使えないので、電子書籍率がいつもより高まった気がします。
さて、今回も原作との違いがチェックポイントになります。本書では、サー・ジョラーの過去に涙しました。ドラマで、どうしてあんなにデナーリスに忠誠を誓ったのかがよくわかるというか、性癖…もとい、女性の好みは変えられない哀しい実例というか。
ジョラーは、二度目の若い美人の奥さん(南部出身のいいとこ出、しかも自分の年齢の半分の若さ)を喜ばせたくて、貧しい熊の島(ベア・アイランド)の経済活動を遥かに上回る借金をしてしまって、島を出ざるを得なくなります。ジョラーの頭にあるのは、妻の贅沢癖をなんとか満足させたい、笑顔が見たいということだけ。妻が金のなくなった自分を捨てて、どこかの金持ちの妾になっても憎めない。こういうのって、いい悪いではなくて、本当に好みの問題だから、どうしようもないんですね(涙)。
だから、その後は孫みたいに年の離れた「女王様」デナーリスに惚れて、彼女の大きすぎる夢を叶えようと努力してしまう……嗚呼。期待された領主の跡取りがこれじゃ、そりゃ残された熊の島の家臣たちは意地でも、他の領主候補を厳しく、きっちり教育するよね。リアナの年齢以上に聡明さって、過去のジョラーのダメさ加減からきていたとは!
そして、ドラマと原作でかなり違うのは、アリアが逃亡するストーリー。
ドラマではジェンドリーを追ってきた王の手下に囚われ、タイウィンの城に連れて行かれて、タイウィンの小間使的な下働きになるドラマティックな設定だけど、原作はもう少し現実的。
アリアはタイウィン麾下のどこかの兵団に捕まって、タイウィンの城に連れて行かれて、雑用をさせられる。タイウィンやらマウンテンには近づくこともできない。ジャクェンとの出逢いはだいたい同じだけど、暗殺依頼のくだりは原作の方がちょっと苦い。アリアの幼さが辛い。
その他、ドラマと原作が違うのは、フレイの親戚の子供たちが非保護者になってウィンターフェルに来たり、ミーラやジョジェンも同時期にウィンターフェルに来てブロンと知り合っていること。それから、ボルトンの私生児のラムジーが死んでいることや、その家臣の「リーク」が生きているらしいこと。シオンのお姉さんの名前は「ヤーラ」じゃなくて、「アシャ」なこと。
このあたりは、複雑で登場人物が多い原作を、すっきりわかりやすいドラマにするための改編ですね。まあ、それでも登場人物が多くて最初は苦労しましたが。
ドラマの設定を、より緻密に描写しているのが、キングスランディングを守るティリオン。スタニスとレンリーを戦わせまいとするキャトリン。この2人をめぐる描写は見事。物語の日本の柱という感じ。
ティリオンは、キングスランディングに来てヴァリスと組んで、チェスのコマを操るように敵を排除し、味方をつくって、サーセイをなだめすかす。全て、戦争の準備のため。でも、それが民衆には「今までの生活を変えたひどいやつ」として恨まれる。「あいつが来てから生活が苦しくなった」って。
ドラマでは、戦争の後のティリオンの民衆への怨嗟でしか表現されていなかったけれど、原作ではブロンがちゃんと部下を使って調査して、ティリオンに報告している。ティリオンや山の民がキングスランディングの市民を怯えさせているって。でも、常識的なティリオンは自分と姉=ラニスター家を守るためにがんばる。
この部分の原作を読んで思うのは、タイウィンがこういうティリオンをちゃんと読んで「王の手」にして民衆の怨嗟の的にして、戦争後は捨てる心づもりだったんじゃないかってこと。古今東西、猟犬は獲物を狩り尽くしたときに始末される。そして、タイウィンはティリオンの能力は認めても、決して受け入れない。ティリオンを産んだことで、愛する妻を殺したから。
スタニスとレンリーの戦いの虚しさは、「娘を救いたい母」のキャトリンの視線で描写すると、より強烈。戦争好きな男たちの幼稚さ、愚かさが、彼女の無力感でじわじわ強調される。そして、ブライエニー登場。彼女もティリオン同様、原作ではドラマよりずっと醜く描かれている。辛い……。
バラシオンの武具師の名言
「ロバートはあの王冠をかぶってから、まったく人が変わってしまった。ある種の人間は剣のようなもので、闘うようにできている。そして、壁にかけておくと、錆びてしまうんだよ」
このドラマは人間というものの標本のよう。英雄は必ずしも、有能な統治者ではないし、賢い母も息子のためには愚かな行動をしてしまう。欠点は、わかっていてもなかなか修正できるものではない。そういうところが、すごく魅力。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?