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『トゥルーマン・ショー』 不自由の中の自由か、自由の中の不自由か。 - わたしの映画時間 vol.2
どうも。
大学時代、メディア論に関する講義を受講していた。
この講義では広告が人々に与える影響について学ぶことができた。例えば、家族団欒で食事をするテレビCM。この講義を受けていた数年前は女性がキッチンに立ち、男性が仕事から帰ってきて、子供と一緒にご飯を食べるものが主流だった。最近になって、男性がキッチンに立っていたり、女性が仕事から帰ってくるものが増えてきた。(子供に関しては変化が少ないように思う。)
「女性は家庭にいて、男性は外に稼ぎに行く」→「家庭にいるのも稼ぎに行くのも性別は関係ない」みたいな世間の価値観の変化をより助長させるのに広告は効果的であるのだろう。
この講義の中で『トゥルーマン・ショー』を観る時があった。当時はよく分からないまま見終わったことを思い出し、もう一度見直してみた。大学生の頃は楽しく見終わりラストシーンで「?」となった記憶があるが、今になって見返すとじわじわと怖さが押し寄せてくるような作品だった。
30年近く前の作品なので、もうネタバレとかなんでも良い気がするが、一応ネタバレしたくない人はこの辺りでどうぞお帰りを。
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小さな島で保険会社のセールスマンをするトゥルーマンは、しっかり者の妻と共に平穏な生活を送っていた。しかしある日、町で死んだはずの父親を見かけた彼は、自分の人生がテレビ番組のために作られたフェイクで、世界中で放送されていたことに気付き…。
簡単に言うと、トゥルーマン(ジム・キャリー)の人生がずっとテレビ放映されている。24時間365日休むことなく30年間も放映され続け、全世界にトゥルーマンのファンがいる。彼以外全員が演技をしている。トゥルーマンの言葉には嘘がないが、周囲の人間の言葉は全て嘘だ。
「俺はお前に嘘をつかない」という親友・マーロン(ノア・エメリッヒ)の言葉すらプロデューサーのクリストフ(エド・ハリス)によって仕向けられた嘘の言葉である。(ただ、マーロンはそれまでのセリフに比べてこのセリフはとても言いづらそうにしていたように見えたので、マーロンの中にも葛藤はあったのだと思う)
粗が見えすぎるところはどうにかしろよと思ったけど、周囲の人間もやるべきことをやっているし、小さな国の人口くらいいるスタッフ・エキストラたちを全員管理することはできないことも納得できる。
内容はこれくらいにして、『トゥルーマン・ショー』を観た私の所感を。
クリストフは名プロデューサーだ。リアルこそ人々の感情を突き動かすものだと考え、突然の出来事にも臨機応変に対応する。クリストフの指揮は時にプロデュースの域を超えているものもあるが、視聴者の視線は釘付けになる。ただ、クリストフの唯一の誤算は、トゥルーマンがとんでもない好奇心と冒険心の持ち主だったということだ。外の世界を見ようとするたびに周りの大人に止められても島の外を見ようとすることをやめなかった。最後、自分の人生を作り上げてきたクリストフの言葉を聞いてもなお、トゥルーマンは外の世界に飛び出すことをやめなかった。
外の世界に出たトゥルーマンは幸せになれるだろうか?人だけでなく自分が見てきた景色、天候までもコントロールされていた世界で30年間生きてきた男が、人を信じられるのだろうか?
全世界の人間に顔が知られている今、周囲の人間がトゥルーマンを監視している状態は外の世界に出ても変わらない。クリストフの世界では全員がトゥルーマンのために動いていたが、外の世界ではそうではない。決められた自由の中で自由になるのが嫌で外の世界に出たにも関わらず、結局苦しんでしまうのではないか?
ならばもしトゥルーマンが自分の生きている世界になんの疑問も抱かずに、全世界の人に見られているなんて思わずに人生を終えたとしたら、幸せな人生だと言えただろうか?
不自由の中で自由に暮らすか、自由の中で不自由に暮らすか。
結局のところ、トゥルーマンがどちらを選ぶべきだったのかは分からない。だけど、トゥルーマンは外の世界に出ることを選択した。それが答えだ。それが不正解かもしれないし、正解かもしれない。でもそれを決めるのは私じゃなくて、トゥルーマン自身だ。
広告やSNS、検索結果のサジェスト欄など、今は自分の選択に影響を及ぼすものが多すぎて、どれが正解なのか分からなくなっている中で、一つだけ忘れてはならないことがある。それは最後は自分の心に聞いてみることだ。何かを選択するとき、その過程で色々な意見を聞くことはいいことだと思う。だけど最終決定を他人に委ねてはならない。これはみんなに言っているようで意志激弱人間な私のための戒めの言葉でもある。
自分で決めて、自分が選んだものを正解にするために、日々を生きる。