「縄文人」のルーツをDNA解析 アジア東部で最古級か

 愛知県田原市の遺跡で見つかった「縄文人」とされる人骨から抽出したDNAの塩基配列を詳しく解析したところ、アフリカからアジア東部に到達したホモ・サピエンスの集団の中でも最古級の系統に属することがわかったと、金沢大や東京大のグループが報告した。日本列島人の成り立ちを探るための新たな手がかりとして注目される。

 DNAを調べたのは、伊川津(いかわづ)貝塚遺跡から出た人骨(約2500年前)。年代的には、約3千年前から始まるとされる弥生時代にあたるが、縄文晩期の土器が発掘されており、グループは「縄文人」とみなしている。

 アフリカで約20万年前に誕生したホモ・サピエンスは、4万~5万年前にアジア東部へ到達し、日本列島には3万5千年前ごろにやってきた。この時期の人類の遺物はヒマラヤ山脈の北側でも南側でも見つかっており、どのルートを通って日本列島に達したかははっきりしていない。

 グループは、伊川津人骨のDNA情報をアジア東部のさまざまな人類集団や古人骨と比較し、その関係を示す系統樹を描いた。すると、現代の東アジア人などよりも、ヒマラヤの南側を通った集団の指標となるラオスの遺跡の人骨(約8千年前)に近く、ホモ・サピエンスがアジア東部や日本列島に到達した時期に近い4万~2万6千年前に分岐したと考えられた。国立科学博物館などが昨年DNA配列を公表した、北海道礼文島の船泊遺跡の縄文人骨(約3800年前)とも近い関係にあった。

 一方、北側を通った集団の指標となるロシア・シベリアのマルタ人骨(約2万5千年前)は、伊川津人骨や現代の東アジア人などとは遠い関係だった。ロシア極東地方の北東アジア人やベーリング海峡を渡ったアメリカ先住民にはマルタ人骨からの遺伝的な影響が認められたが、伊川津人骨では認められなかった。

 グループの覚張(がくはり)隆史・金沢大助教は「伊川津の縄文人は、非常に古い時代に南側ルートでアジア東部へ入ってきた人類集団の直接の子孫にあたる。その形成には、北側ルートを通った集団の影響を受けなかった可能性が高い」と話す。

 伊川津人骨の祖先となった人々が、初めて日本列島へやって来たのがいつだったかは、まだよく分からない。また今回の1個体の検討結果だけで、北側ルートの遺伝的影響を完全に否定できるものではない。

 このためグループは、伊川津貝塚遺跡から出た他の人骨や、千葉県の遺跡から出た人骨などのゲノム解読に着手している。科博のグループも、北海道や東北などで見つかった古人骨の分析を別途進めている。

 日本列島に初めて定着した人類集団の姿を明らかにすることは、日本人の形成過程を探る上で欠かせない。太田博樹・東大教授は「伊川津人骨の分析から、アジア東部で他の人類集団と交ざることなく、1万5千~1万2千年間くらい孤立していた縄文人のイメージが浮かんできた。これが妥当かどうかは、より多くの縄文人のゲノムを調べ、その違いを見ることで分かってくる」と研究の進展に期待を込める。

 この成果は科学誌コミュニケーションズ・バイオロジー(https://www.nature.com/articles/s42003-020-01162-2別ウインドウで開きます)に報告された。(米山正寛)

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