幼少期の"自我"は如何にして目覚める?
紀貫之が書いた『土佐日記』の書き出しには「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」とあります。仮名文字で自由度の高い文章を書き、男性の国司が書いたという先入観を無くすため女になりきったわけです。
私は今、どこの誰で今どんな立場にいるのかは搔き捨て、エッセイストになったつもりで幼少期の経験とか価値観を醸成した出来事なんかを伝記風にnoteへ書き記していきたいと思います。
今回は幼き日の記憶についてです。
まず、幼いころの記憶とは、何か(ネットリ
幼いころを振り返ってみると「人生の最初の記憶」というものはとても曖昧です。
我が家では子煩悩な両親が旅行やイベントのたび家族写真やホームビデオを大量に撮影しては保管していました。
そして幼児期から小学校低学年頃までの間、年末年始や連休に両親の撮影した「作品」を家族全員でリビングに集って見て振り返る会が催されていました。
そこでは家族3人が(妹が生まれてからは4人が)タンスの奥底から無作為に取り出したアルバムを眺めたり、棚の底から取り出したビデオテープを鑑賞したりするのです。
加えて両親が写真や動画に付随する思い出を口頭で語ります。
1歳、旅先のサイパンで滑り台を下る写真
2歳、自宅の階段から転げ落ち痛々しい顔の傷が残る中、家でハイハイをしている写真
2歳、湯布院で汽車に乗りはしゃぐ動画
3歳、幼稚園のお遊戯会で熊の着ぐるみを着てあざとく踊る動画…。
様々なシチュエーションが両親によって記録されていて、少しだけ年を重ねた私は家でそれを見て両親からの説明を聞いていました。
人生初の海外旅行はサイパンのようですがその記憶は全くありません。
一方で、サイパンの滑り台でドヤ顔を決める幼き自分の写真を「見ている時の記憶」は鮮明にあるのです。
他の写真や動画についても撮影時の記憶は全くなく、鑑賞会の記憶がある、といったケースがあります。
こうなると私が「人生の最初の記憶」かもと考えるものは両親が残した写真や動画と両親が語るエピソードによって創り上げられたもので、私の脳内に「両親の記憶を移植したもの」なのかもしれないですよね。
したがって「これが人生の最初の記憶だ」と明確に断言できるものは最早、ないのだと思います。
今思うと、初めての"自我"?
一方で幼き日の記憶として思い出せるいくつかの場面には両親や周りの大人が介在しない完全に私だけの時間があります。
この場合、確実に自分自身の記憶と判断して差し支えないものといえます。
写真や動画で記憶が補完されていませんから。
記憶の限り両親と関わらない時間として残る最初の記憶は幼稚園の年中(4歳)の12月、園のクリスマス会で開催される合奏にむけて演奏する楽器を決める抽選会の際の記憶です。
この抽選は幼稚園のクラス内で行われました。つまり、両親は傍にいないわけです。
大人である先生から後日エピソードトークとして聞いたという記憶もありません。
加えて特筆すべきは記憶に自分自身の感情が絡んでいるのです。
感情が想起できるということは純正の己の記憶といえるでしょう。
幼稚園のクリスマス会では園児全員でクリスマスソングを演奏するのですが、大半の園児はカスタネットと歌、数名がピアニカ。
そして選ばれし僅かな園児のみがそれぞれ1枠しかない木琴、鉄琴、大太鼓、中太鼓という大きくキラキラとして合奏においてもビジュアル面でも目立つ楽器を演奏する権利を手にすることができます。
したがってこうした「華の楽器」には多数の立候補があって、「〇〇やりたい人~」という先生の声かけに複数の手が上がり、厳正なるジャンケンの末、勝者が演奏する権利を手にすることになります。
私は幼少期から目立ちたがり屋というわけではなく、かといってコミュニケーションに全く消極的というわけでもありませんでした。
ただこの時は合奏の中で最も音が大きく最も重要度が高く最も目立つ楽器であるところの大太鼓に立候補しようと思っていたのです。
というのも、両親から立候補するように強い薦めがあったのです。
おおむねクリスマス会で大役を務める息子の姿を拝みたいという意向だったのでしょう。
いざ立候補の時。
先生に「大太鼓やりたい人~」と呼ばれる瞬間をドキドキしながら待っていましたが、呼ばれた瞬間、周りの園児の大多数が手を挙げるのを見て私はそっと、挙げかけた手を下げました。
30人近い立候補者の中から大太鼓を勝ち取るのはまず無理だと悟ったし、もし勝ち取ったとして足元に積みあがる30近い屍に見合う華々しい役割を全うする気概が、ありませんでした。
それを私は一瞬のうちに判断し、行動しました。
結果、当然私は大太鼓の役割を得ることはありませんでした。
今思うと私の"自我"はこの時、明確に開花したのかもしれません。
両親に言われるがまま行動するのではなく自らの意志で行動を選択したのです。
イヤイヤ期のように何事においても非従順である場合ではなく合理性のある非従順としての"自我"だといえます。
行動の主体が「わたし」であるという感覚を明確に得て、「他人」と区別できる「自分」の存在を認識したということです。
両親と私自身が分離した瞬間として行動的にも感情的にも印象深く、それが故に自ら想起できる最古の記憶として定着しているのだと思います。
ゆがんだ"自我"の目覚め
大太鼓に立候補しなかった時の私の中には自分に対する自信のなさと挑戦することへの恐怖があったように思います。
30人にジャンケンに勝てるはずがない、どうせ無理だ、仮に勝ったとして、そんな華やかな大役が私に務まるのか?という不安から、私の"自我"は挙げかけた手を下げたのです。
勿論、幼少期の様々な経験が私の自我を形成していくのでしょうけど、その興りは、4歳の12月だったという気がしています。
私はこの、自らに対する自信の無さと挑戦の敬遠を起点に、小学校高学年にかけて、人の顔色を窺うことを重視し、責任から逃れることに重きを置くようになっていくのです…。
自らに対する自信の無さと挑戦の敬遠に端を発し、"ゆがんだ自我"が形成されていったという自覚があります。
ですが、これはまた別の話です。
こう考えると、幼少期の"自我"は如何にして目覚めるか?という問いへの答えは、大人が幼少期を振り返る場合まず「自分自身の中に残る最古の記憶」を辿ることで見えてくるように思います。
その中で特に「自分自身の感情が絡んでいる記憶」というのが"自我"の目覚めと関わりが深そうです。
自分自身以外の子供における"自我"という観点では「周囲の大人(特に両親)に対する非従順」が発生したタイミングでは少なくとも"自我"の形成が始まっているといえるでしょうか。
ただイヤイヤ期のように何事においても非従順である場合ではなく合理性のある非従順、もっと言うと感情が伴っていて論理の飛躍が無い非従順である場合こそが、本当の意味での"自我"の目覚めなのでしょう。
これを外部から判断するのは少し難しいかもしれませんね。
さて、最終的にクリスマス会の楽器の選択において私は、中太鼓という役割を手にします。
幸運なことに楽器の抽選システムはプロ野球のドラフト会議のように第1巡選択希望楽器を選んだ園児同士でまず1名の演奏者が確定して、敗れた園児は第2巡目の選択に移行するというシステムでした。
したがって大太鼓に立候補した30人は第1巡で中太鼓へ立候補することができず、中太鼓は第1巡目で希望した数人のうちからジャンケンとなったのです。
これに運良く勝ち切りました。
両親にその旨を報告したところ「あんた、中太鼓やりたかったのね」と笑われましたが、その表情や声色から大太鼓に立候補しなかったことに対する失望を感じなかったのは覚えています。
両親と「分離したて」の私自身を否定されなかったことは今思うと有難いことだったと思っています。
クリスマス会当日、両親は私の数倍はしゃいで写真や動画を撮りまくっていました。
勿論その「作品」もいまだに、両親の家のタンスの奥底に眠っているわけです。