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機械仕掛けの神 a god from the machine
機械仕掛けの神 deus ex machina と言えば、古代ギリシアの芝居で使われた神様の姿を描いたハリボテを裏から仕掛けを用いて動かした小道具?を指すそうである。このことを深読みすると、古代ギリシアにおいては、神という精神的なものと器械あるいはメカという物質的な機構とは外在的 ex な関係において結ばれていたということである。
古代ギリシアの神々は総合的な神々であった。彼ら彼女らは群れをなしており、親がいて子をなし、兄弟姉妹を持ち、レアケースだが場合によっては死ぬこともある。また、色恋や嫉妬や憎悪といった情緒があり、知性や筋力もある。人間との違いを敢えてつけるなら、天から寿命が与えられているかどうかぐらいの違いしかないようである。このようなイメージも、機械とはまったく程遠く、むしろ正反対のシロモノである。
一方、ルネッサンスの思想家は、人間をキリスト教の神━━これはギリシアの神々と違ってすこぶる立派で清くて頭でっかちなイメージである━━と、行動を動機づける欲望の塊である動物(けだもの)との間に位置づけた。すなわち、人間には神様のように立派で清らかな側面や知的な側面もある一方、ケダモノのように自己保存や自分の欲望の満足と再拡張のために行為するエゴイスティックな側面もある、ということだろう。
人間をこのように分析すると、人間=理性+知性+感覚となる。感覚は動物的なものである。一方、知性は記号を並べて個別の命題 proposition を構成するものであり、神においては完全な知性が実現されているが、人間には部分的にしか与えられていない。そこで、人間には命題と命題をつなげて別の命題を推論 reasoning する能力、すなわち理性 reason が与えられているが、これは人間が不完全だからこそ与えられている能力で神には存在しない。ここで、機械的なもの、あるいは計算機的なものを探してみると、知性には情報的な価値を持つ命題(これは二値な値を取るセンテンスである)があり、理性には命題を複数組み合わせて新たな命題を構成するという計算機能がある。それでいながら、人間知性の元々のイメージである神の知性にはそのようなメカニックな側面はない。なぜならば、神の知性においてはあらかじめすべての情報が出し尽くされており、かつ、それらへのアクセス速度の速い遅いなども存在しないからである。
このように考えてみると、計算や組み合わせによって新たな答えを獲得するという手順、いわゆるアルゴリズム(計算手順)というのは、むしろ人間を分析する中で出てくるしかなかったのだと言えそうである。なぜならば、そのような観念は従来の神の観念の中にも動物の観念の中にも無かったからである。
人間はいろいろなことを考える。例えば、宇宙の始まりと終わり、人類の起源と限界、自分のまばたきの回数、同じ惑星の裏側にいる友人の安否、死者の魂の様子や、架空の人物の性格と行動についても考えることができる。言い換えれば、感覚を超えたこと、自分一人の人生を超えたこと、人間の能力を超えたこと、現実世界ではあり得ないことについても考えることができる。それらのことをただ無作為につなげたというのではなく「考えた」というのはそれらに一定の脈絡あるいは規則性をつけて計算できたということである。例えば、白雪姫が泣いたのは彼女が悲しい目に合ったからである。白雪姫が実在しない人物で、もちろん彼女が体験した出来事も実在しなかったのだとしても、このような推論は一定の妥当性を持っているから、「考えた」とか物語としての意義あるいは必然性を持っていることになるだろう。
……と、機械の観念が人間の歴史のどこに由来し、どこにくっつきそうかを考えようとしたが、途中で悩んでしまったのでこれは失敗記事としてここで終わっておく。
(1,580字、2024.05.30)
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