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暴力と正当化 violence & justification

何らかの二者間の課題解決に当たって、手段として暴力を使うやり方と全く使わないやり方が考えられる。また、手段が正当化されて妥当だと認められる場合と認められない場合がある。それぞれどのような場合だろうか? 我々はどのような場合に暴力の行使を正当であると認め、どのような場合に認めないのだろうか? またオンライン上で、ネットワークの無効の相手を直接殴りつけることはもちろんできないが、それでも殴りつけたくなって嫌な文字列を再生産してしまうのは一体どうしたわけだろうか?

(1)暴力を行使するが、正当化される
(2)暴力を行使するが、正当化されない
(3)暴力を行使しないが、正当化される
(4)暴力を行使しないが、正当化されない

(1)暴力を行使するが、正当化される

これは例えば、相手が先に暴力を行使して正当防衛する場合や、暴力を使って相手を傷つけるリスクを取らなければ自分自身の生命が危うい場合などが考えられる。つまり、緊急時あるいは戦時下の手続きとしてのやむを得ない暴力は認められる、すなわち違法性が阻却されて罪にならないと言えるだろう。

平時では死刑の執行や格闘技などの危険なスポーツ外科手術などが暴力に当たるが、これらは一定の手続きの元で正当(=正当業務の範囲)と判断され得る。例えば、大リーグで相手バッターへの報復として故意死球を投げ、後遺症が残った事例があるが、少なくとも州レベルでは正当業務のなかの事故とみなされたことがある。

(2)暴力を行使するが、正当化されない

例えば、明らかに丸腰の相手に対して武器やボクサーの拳を使って暴力を振るった場合、それは正当化されない。なぜならば、均衡が取れていないからである。この場合、それ以前に相手からどれだけ暴力以外の点で嫌がらせを受けていても先に手を出してしまった方がマイナスを食らうことになる。

暴力や暴力を使って威嚇して不法に土地を占拠して住み着いた場合、つまりいわゆる「実効支配」した場合、占拠された側が抗議の声を挙げ続けないと、不法占拠が既成事実として正当化されてしまうことがあり得る。言い換えれば、正当化されるかどうかは権利が侵害された方がどのような態度を継続して取るのか取らないのかによっても変わってくる。いわゆる「法の上に眠るものは保護されない(時効)」である。

(3)暴力を行使しないが、正当化される

例えば、あらゆる商取引はそれが「公正」であると認められる限りにおいて、正当である。それに準ずるような交渉や取引、例えば人質交換などもそれに当たるだろう。

しかし、「暴力に訴えない」とか「話し合いで……」というのは実に聞こえがいい。文明的で冷静で穏やかで誠実に思えるかもしれない。だが実際には「暴力に訴えない」で取引を有利に進めるための手段はいくらでもある。例えば相手に嫌がらせをしたり、別の選択肢をおとりに使ったり、出し手と受け手とのあいだの情報の非対称性を利用して取引に使う金品を実態以上の値打ちがあるようにみせかけるといった詐欺(サギ)を働いたとしても、それは暴力に訴えたことにはならない。ただ、身体に危害を加えるという意味での暴力ではないが、一種の人権侵害としてのハラスメントは生じるかもしれない(どこかで或る弁護士が相手に対して「リーガルハラスメント」をおこなっていると非難したが、弁護士は職業上に依頼人の利益になるなら、リーガルハラスメントをもおこなわなければならない立場だろう)。そしてハラスメントは身体を傷つける暴力よりも厄介である。なぜならば、ずっと証拠が残りにくいからだ。

だから、暴力を行使しないが正当化されていることの幅は非常に広い。なぜならば、暴力と認定されない軽微な嫌がらせや騙しのトリックは極めて卑怯であり、累積的におぞましい disgusting のだが、それが確たる証拠を持ちにくくまた規模も大きくないために直接裁かれることは無いからである。我々がオンラインで口喧嘩するときも、おおよそは身体への暴力へ訴えることはできないものだから、このおぞましさ disgusting を巡ってお互いへの攻撃を競い合うことになる。

我々がネットで自分のあずかり知らないことや影響関係が無いことをスルーしようとするときに大抵スルーし切れない境界例として問題になるのが、自分自身にとって disgusting な画像・動画・音声・エピソードである。

(4)暴力を行使しないが、正当化されない

だが暴力を身体に行使しないとは言っても、例えば罵詈雑言、中傷、侮辱、名誉毀損が大量に集中的に一人の人物の生活、日常に流れ込めば、それは深刻な結果をもたらす。例えば、本人の自傷行為や自殺、発病である。あるいは、本人の周辺の家族に風評被害が及ぶこともある。そのような前例が積み重なったことによって、いくら言論の自由や通信の自由があるとは言っても、道理に通らない陰湿かつ人格否定的な暴言を浴びせられるのは正当化されないことになっている。だから、暴力を使わずとも他者に危害を加えることはできるし、それは正当化できないという意味で「悪い」「罪である」と言うことになり得る。

一方、そのような誹謗中傷に対して暴力で対抗する人もいるのだが、これはこれでまた別の正当化が必要になることだから、誹謗中傷と暴力とは別立てで考慮され、判決に反映されることになる。


トラブルを謝罪で収めようとする人、金銭で解決しようとする人、誹謗中傷で解決しようとする人、暴力で解決しようとする人たちがいて、これらは残念ながらどれも完全に「公平」とは言えない。なぜならば、どのような解決手法を取るのが得意なのかは人や勢力によって、あるいは価値観によって得意不得意があるからである。最終手段とはいえ、暴力が最も機能してしまう場面もある。だから、「公平」という理念は置かれるものの、自分がどの解決法だと一番有利にコトを運べるか、相手と交渉できるのか、相手が提案する解決策に対してどう反応すれば自分としては有利になるのかを棚卸ししてみてもいいかもしれない。

(2,475字、2024.05.23. 難病の日)

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