淀屋橋での不毛な口論
まだ関西に住んでいた頃、淀屋橋駅のそばで友人と英語を読む会合をやっていた。といっても、二人でただ英文和訳し合うだけである。テキストは人文系の内容ではあったが、構文の取り方や修飾がどこまでかかっているかについて、二人の間で解釈が別れることがたびたびあった。なぜならば、内容の解釈以前に昔の英語にありがちな長文が続くタイプの英語だったからである。なお、当時は30代だった。
細かい点でのたびたびの衝突があっても、いったん判断保留として次のセンテンスへと移っていくこともしていた。なぜならば、やはりひとつのセンテンスの解釈にばかりこだわっていても時間がかかり過ぎるし、次のセンテンスを読めば追加でわかることもあるかもしれないし、悩み過ぎても徒労だからである。
だが、そのように流して行ってもやはり、それまで保留したセンテンスの解釈違いが累積(るいせき)してお互いの溝(みぞ)は深まるばかりなときもあった。もし、今の私が当時の自分自身にきいたらそうは言わないかもしれないが、やはり感情的になり、興奮し、声が大きくなっていた側面もある。
それでも、完全に感情的な対立、あるいは譲歩が考えられない対立に成らなかったのは、論点が英文解釈だったからである。すなわち、英文解釈では当然、英語の辞書やテキストという共通に認める権威があり、自分の解釈や仮説はそれらの証拠にもとづけて正当化されるべきだということについてはそこそこ同意が取れていたからである。
ただ、そのときに言い争っていてはじめて気がついたことがあった。反対に言えば、未熟なことにそのときまで気が付かなかったことだったとも言える。それは、相手の解釈について幾つ弱点を見つけて指摘したところで、自分の解釈がそれによって正当化されるわけではないということである。なぜならば、相手の解釈が間違っているとしても、まだ十分に自分の解釈が間違っている可能性も残っているからである。
ここから学ぶべきことは少なくとも2点ある。 (1)相手の仮説や解釈の首尾一貫していないところを探すよりも自分の説を補強するか、もしくは第三のもっと正しい説の提案を模索した方がよい。 (2)相手から自説の不首尾を指摘されたとしても、相手の説がそれによって有利にならないから余裕を持つべきである。
(1)相手の仮説や解釈のキズを探すより自説の補強 support もしくは新説の提案 suggest をした方がよい。なぜならば、スッキリと解釈できる答えがみつからない中で対立が起きているときは、第三の新しい解釈を提案して評価してもらったほうが正解に近づける可能性や選択肢、すなわちそれ自体が正解ではないとしても、視野が広まるからである。
(2)また、相手から自分の仮説や解釈について矛盾点を指摘されたとしても、だからといって、相手や相手の説の方が有利になるとも限らない。弱点は弱点としておいておけばいいのであって、そこにだけずっと固執する必要はないのである。なぜならば、あなたの解釈はあなたが提案できる数多くの解釈のうちのひとつに過ぎないし、それに弱点があるとしても、相手の説の方がもっと多くの弱点があるかもしれないからである。さらに、もちろん、両方とも無惨に誤った解釈を押し付け合っているだけかもしれないからである。
したがって、相手のキズをひとつふたつ指摘できたからといって調子にのってこだわるほど大したことでもないし、反対に相手からキズを指摘されたとしても、それを上回るメリットを自説が提供できているかどうかに注意した方がよい。なぜならば、大切なことは誤っている可能性が高い私やあなたがたまたま思いつきで述べた説にこだわることではなく、正しい説を構築し提案することだからである。
(1,539字、2024.05.27)
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