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自由と可能性

誰かを特徴づけるものとして、その自由さというものがある。それはいずれも可能性の拡張である。そこで、可能性の拡張としての自由について前もって2種類を区別しておこう。

自由には2つの種類がある。ひとつは何らかの束縛を免除されているという自由である。これは消極的自由と呼ばれる。一方、もうひとつは、自分を自分自身が立てた原則で統治するという自由である。言い換えれば、自分を束縛する規則を自分で立法することである。これは積極的自由である。

(A)まず、消極的自由の獲得は、可能性の拡張である。なぜならば、それはそれまで狭められていた選択肢を広げること(=禁止の解除)であるからだ。それは旧い規則にもとづいて、それを守ってもよいし破ってもよいという可能性を与える。消極的自由の獲得とは旧い規則からの解放ではあるのだが、そこで前提されている可能性の空間は旧い規則が構築した可能性の空間であり、例えばそれは何かからの自立または独立である。

(B)次に、積極的自由の獲得もまた、別種の可能性の拡張である。なぜならば、それは規則を立てることによってその規則を守るべき場合、守らなくてよい場合、破るべき場合、破らずに守るべき場合などを分節化し、新たな可能性の空間を定義するものであるからだ。これは新たな規則の創造とプレイという意味では構造構築的である。積極的自由の獲得とは新たな規則を受け入れることであり、例えば新たな他者との依存関係を承認するか、もしくは構築することである。

この自由の区別を前提とすると、例えば人間が成長して以前より「自由」に成ったという場合でも、以前与えられていた禁止や規則を適切に破れるようになったという(A)の場合の自由を取得した場合もあれば、(B)自分自身で規則を立法し、それについて自分で自分をモニターしながら自己決定を図れるようになる場合とが挙げられるだろう。言い換えれば、(A)例えば「お酒を飲んではいけない」という規則を与えられた未成年は単に可能性を閉ざされていただけであるが、節度ある大人は「今はお酒を飲める」「今は飲めない。なぜならばこれから自動車を運転しなければならないから」といったかたちで昔与えられた規則に従わない場合と、従う場合とを区別して自分に節度を持たせながら可能性の空間を泳ぐことができるようになる。あるいは(B)例えば、自分自身で、減量のために毎日体重計に乗って体重を確認するという規則を今日から定めたなら、それを守るにせよ、守れなかったにせよ、毎日自分自身に「今日は体重計に乗った/乗れる日」「今日は乗らなかった/乗れない日」という新たな可能性の空間を定義することになる。

こうして(A)(B)いずれの場合でも、誰かが自由という特徴づけを得るということは、選択肢を増やすということであり、可能性の空間を拡張するということである。それは具体的には記号を並べたり並べ替えたりして、既存の規則を別の規則(例えば目的)と関係づけたり、新たな規則を新設してさらにそれの言い換え(解釈)を紐づけることによって実現する。


さて、ここで一例として考えてみたいのは、物心がつく前の「子供」についてである。その子供は上記のような意味で自由と言えるであろうか? いや、自由ではない。なぜならば、子供は単に環境からの刺激に反応するだけだからである。例えば、キラキラするものを見せられれば喜び、妙な匂いをするものを近づけられば逃げるかもしれない。したがって、子供は一種の生理的肉体的な法則あるいは傾向性に従っているとは言えるが、それらを規則として認識して、破るか破らないかを計算して考慮しているわけではない。言い換えれば、子供に可能性の空間はまだ開けておらず、子供は自由とは言えない。

もし子供に物心がついて言葉を適切に扱えるようになり、与えられた規則を理解した上でそれを敢えて破れるようになれば、子供は消極的自由を獲得したと言える。なぜならば、彼はルールを守った場合と破った場合とを区別し、それぞれの結果を比較してどちらかを選択できるようになったからである。さらに自分でルールを考案して友人と遊びをプレイし始めたら、子供は積極的自由の下に進んで身を置くことができるようになったのである。そうすることではじめてルールの解釈で他の子供と揉めるといったことも可能になるであろう。このように子供が自由を獲得するプロセスを分析してみてもそこに可能性の空間の変化が横たわっていることは明白である。

(1,842字、2024.04.28)

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