無礼な「論理性」
ベテランの社会学研究者の比較作文教育の本を読んでいる。この本の白眉(はくび)は第三章で、そこでは、4つの論理性(4つの作文教育)がお互いの共通点と相違点、長所と短所を指摘しあう様子が著者によって代弁されている。
4つの論理性とそれらを超越する審級の不在
なぜこの第三章が興味深いのかと言えば、それはひとつの論理性の内部においては、他の3つの論理性に対する短所の指摘あるいは論理的な批判であるものが、いったんそのひとつの論理性から抜け出てみれば他の論理性にとっては、指摘や批判のような知的なものではなく、まったく無礼不躾(ぶしつけ)な悪口であるということである。
米国のエッセイ
例えば、米国の作文教育で教えられる型である「エッセイ」では主張+(根拠+根拠+根拠)+結論(≒主張)という5段構成である。これは冒頭でいきなり自己主張をぶつけ、それを補強する根拠をいくつもみつけて即座に判断を下すことができるスピーディーで「効率的」な形式だ。これによって関係者間で素早く「納得」を調達できる
フランスの作文
一方、フランスの「ディセルタシオン」では、問われたことに対して、自分自身で二つの定義と問いを立てる。すなわち、「正」の課題設定とそれと相容れないような「反」の課題設定を同じほどの手間暇をかけてやるのである。そして、「正」でも「反」でもない「合」という新たな課題設定に飛躍することによって「正」と「反」とのギャップを無力化するのがよいとされるのだ。ディセルタシオンの利点は、フランスの権力エリートに必要とされる多くの利益集団の観点をあらかじめ取り込んだ上で、熟慮された慎重な結論に接近できることである。
フランスの作文は「ムダ」
この2つの型を比較するだけでも、相互に相手が非論理的どころか不道徳であり無礼ですらあることが察することができる。例えば、「エッセイ」からみれば「ディセルタシオン」はあまりにも非効率である。書き手にとっても読み手にとっても時間のムダだ。なぜならば、全体の分量があまりに多い上に、何より結論が冒頭に書かれてないからである。タイムイズマネーというアメリカの倫理からすればこれは犯罪的である。
米国のエッセイは「無思慮」
一方、「ディセルタシオン」から見れば「エッセイ」は異論に対する考慮が全くないか、あったとしてもあまりにも浅薄である。したがって、異なる利益集団に対する「配慮」がない。「配慮」がないということは「合意形成」の可能性を潰していることになる。フランスの権力エリートは様々な背景を持つ利益集団に配慮して「合意形成」をしなければならない。なぜならば、そうしなければ政治的に重大な結果(紛争や虐殺)を招くからである。そこでは誤ることは許されないし、エッセイのような即断やあらかじめ結論を個人的に決めてそこに都合のいい根拠をピックアップして極端な行動を開始するなどはもってのほかである。つまり、エッセイは短絡的なだけでなく、無思慮で無責任ですらあるのだ。
どれほど論理的に丁寧に書いても無礼になり得る
上記のエッセイ対ディセルタシオンの対立?すらそれらを調停する上位の原理(上位の審級)は存在しない。にも拘わらず、この他にも日本の「感想文」やイランの「エンシャー Insha」といった全く異なる目的を元に意図され設計された作文の型が存在するのである。もちろん、これら4つの型の他にまた5つや6つ目があるかもしれない。しかし、それらがどれだけあるにしても、それ以上にそれらの型を調停して統合するような、あるいはどの型からみても尊重されるような作文の型は存在しないのである。
そして、上記に見たように作文の型とは文の並べ方のことであるが、それをどのように並べるかによって、書き手の論理性が見積もられるばかりか、倫理的評価にすらつながってしまうのだ。こちらが特定の論理性に沿って丁寧に材料を拾い集め、誤解のないように、簡潔に、相手に気を使わせたり負荷の無いようにいかに気を付けようとも、相手の「論理性」の受け取り方がこちらとズレていたらそれでもう無礼者なのである。
視野拡大と絶望
だから、私はこれら4つの型を具体的に研究結果として説明されたとき、自分自身の書き方の方針をどのように選択すべきかについて非常に解像度高く考えられるようになり、また自分にとって難解だったりおかしな文章にみえるものも異なる目的からすれば理にかなったものとして理解し直せるという点では視野拡大・自由拡大の思いを強くし、勇気づけられた。
だが、一方で、それらが論理性の(少なくとも現段階の)「最高のカテゴリ」であり、それらは複数あるにもかかわらず調停不可能な価値を相互に内包していて、お互いにこの違いについて寛容または忍耐を持たなければ相手を無礼者として非難しあわなければならなくなることに大きな絶望を感じもするのである。
(2,013字、2024.12.01)