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瞑想、あるいは「思考」停止の推奨、そして知性と情緒のアイソレーション

頭をよくするにはどうすればいいか? いろんな意見の人がいる。

或る人は意図的な訓練が必要だという。言い換えれば、情報に対して受け身にならず、「思考」を停止させないで、意図的に対象をひっ捕まえて分析していくことが必要なのだと説明する。一方、別の人もやはり意図的な訓練が必要だとは言うのだが、むしろ「思考」や「分析」をストップさせる時間をあえて設けるように勧める。なぜならば、思考や分析というのは一種の余計な執着だからだというのだ。言い換えれば、そのような執着には必要なものもあるが、不必要だったり、葛藤やこじらせに発展するものになるのだから、むしろ執着を手放すクセをつけたり、自由にとっ捕まえたり手放したりできるようになったほうがよい、というのである。

なるほど、例えば自分独自の主張を展開し、その主張を支持・補強するような理由や証拠を理路整然と並べ、たとえ論敵からその主張を弱めるような反論や証拠を出されたとしても、その反論をどのように理解すべきであり、さらにどのように再反論すべきかをピンポイントで刺し返せる……そのような「頭のよさ」、あるいは知性のかたちもあるであろう。

一方で、嫌いな相手や上司、肉親から悪口やからかいをいくら受けても平気な顔をして返事をしたりしなかったりできる人もいる。言い返しもしないし必死になって事を荒立てることもない。相手の悪意がいくら見えてもまったくスルーし、それでいて自分が言うべきは必要最低限言う。相手の挑発などに乗って情緒に流されることがない……これもまた「頭のよさ」の一種であろう。

どちらが正しいのだろうか? あるいはどんなときにどのように両者の考え方をミックスさせたり、それぞれを位置づけたらいいのだろうか? というのも一見、思考停止を片方は否定し、もう片方は肯定しているようにみえるからである。

このような相反するかのようなアドバイスが両方とも世間に流布する理由は、人間の中で知性と情緒とが連動しているからである。もし何の訓練も受けなければ、知性を使えば、すなわち言葉を聴いて理解したり思い浮かんだことを話したりすれば情緒もまた言葉に合わせて不必要なまでに揺れ動くものである。また、環境や自分の身体から刺激を受ければ、口から出る言葉も影響を受けるのが、やはり人間の自然な性質である。例えば寒くなれば「寒い」と言い、小指を不意に硬いタンスにぶつければ「痛い!」と言ってしまう。誰かにイヤミを言われたら、相手に悪口を言い返してしまう。売り言葉に買い言葉だ。

だから、「思考停止は止めよ!」と「思考停止せよ!」との共通する部分を教訓として取り出せば、「君の中の知性と情緒とを分離せよ!」となる。あたかもピアノの演奏者が左手と右手を別々に動かせるように、知性と情緒とを別々に動かせるようになること──それがこの二つのアドバイスに共通する「頭のよさ」なのである。ピアノを習っていなければ、左手の指が動けば、対応する右の指も同じように動いてしまうし、反対も同様である。

しかし、たとえ勉強を重ねて知性を磨き、瞑想を重ねて情緒に戸惑うことが減ったとしても、この人間の二つの特徴である知性と情緒とを分離独立させて動かせるようになったとしても、さらにその次があるであろう。すなわち、知性が返してくる解答と情緒が返してくる反応とを区別した上でそれらをどのように総合して相手や環境に適切に反応するかどうか、という課題である。

言い換えれば、頭がよくなりたいとは言っても、所詮「頭のよさ」は能力であり道具に過ぎないということである。「頭のよさ」にいろいろあったとしても、それを何のために自分の中で再編成して何のために使うのかという「価値」の領域、方向性の領域については「頭のよさ」だけで自動的に決まるものではない。頭のよさを磨くと同時にこの「価値」や目的そのものを適切に自分の中で組み替えていきたいものである。

(1,608字、2024.10.01)

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