ピンクの象
「ピンクの象のことを考えないでください。ピンクの象を絶対に思い浮かべないでください」。
このような指示に聞き馴染みのある人もいれば、今生まれてはじめて聞いたという人もいるだろう。この否定形の指示に対して、「ピンクの象」を思い浮かべてしまった人は連想ゲームや詩作が得意かもしれない。なぜならば、言葉を聞いて、それが指示する対象を何らかのイメージ・表象でつかまえてから考えたり動いたりしているからである。
一方、思い浮かべなかった人もいるはずだ。私もこの指示に対してはもはやそういう反応である。ピンクの象を思い浮かべずにいられない人からすれば考えにくいかもしれないが、例えば「179を絶対に思い浮かべないで」と言われたときに「179」を思い浮かべないし、179に関連する179個のリンゴとか179頭の子象を思い浮かべずにはいられないということもないだろう。そうかといって、179を使った計算ができないことにもならない。つまり、179を思い浮かべなくても179を十分使いこなすことができて、そのときにイメージは不要であり、ときには邪魔ですらある。だから、それと同様な反応を「ピンクの象」に対しても示すことができるのである。
冒頭の指示は「脳は否定形を理解できない」ことのデモとして頻用された。この「ピンクの象を絶対に思い浮かべないでください」があまりにも多用されたため、同じことを言われても、私はイメージが浮かぶとしても、むしろセンテンスの文字列かそれを述べているセミナー講演者のイメージしか思い浮かばなくなってしまった。したがってピンクの象を思い浮かべることはまれである。
つまり、これらのことから学べることは二つある。一つは「脳は否定形を理解できないのは確かだろうが、言葉を聞いてもイメージ想起も含めた稼働を拒絶することは訓練によってできる」である。言い換えれば、脳は否定形を理解などはしないが、単に文章を否定も含めて丸ごと拒絶することはできるということである。さらに言えば、私たちは文章を理解する前にその音や画像を感覚器官から仕入れているはずであるが、それらを「理解・知性・悟性」understanding に入る手前の待合室で追い返してしまうことも、できなくはないということでもある。
もう一つは、「言葉はイメージを伴わなくても計算可能・操作可能である」ということである。むしろ抽象的思考にとってイメージというのはあまりにも豊かな特徴づけを持ち過ぎて記号列の計算や操作にとって余分なものである。言い換えれば、イメージの余分な特徴を削ぎ落として純粋な区別あるいは識別だけを反映させたものが記号列であるとも言える。このとき、記号はイメージの世界、あるいは感覚的な映像の世界から独立した一定の構造と機能を持って自律的になっているともいえるだろう。
(1,167字、2024.06.26)
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