南半球オセアニアニュージーランド・私の根底にあるもの
こんにちは。何でも
ストーリーテラー宙唄
です。
ここまで
50日間、いろいろなことを『note』
して来ました。
今回は、その根底にある
『ニュージーランド』
について。
私は大学卒業後、社会人前に1年間ニュージーランドで生活する選択をしました。
ある意味この人生の選択が私という人間の価値観が始まる核の部分になりました。
オールブラックスやマオリ族、「キウイ」と言われる飛べない鳥とその形によく似た「キウイフルーツ」、乳製品や羊製品など、
今思い出しても豊かな地球人としての営みがある国でした。
当時の私はニュージーランドへの入国滞在に、『ワーキングホリデービザ』を取得して行きました。
今から
20年以上前
今では当たり前の選択肢になったのでしょうし、当時は
『25歳以下』
という制約がありました。
今は自由化、多様化が進んでいっているようです。
そもそも大学入学後まで友達も、生きる目的を知らず漠然と生きていた私。
ワーキングホリデーを選択したのは
絶対的就職氷河期だった学生時代の暗いニュースに、
日本の未来を絶望したとき、
未来は「多言語」を日本で生きるとしても必要になるのではないか?
と捉えたからでした。
私は
「英語」で赤点しか取ったことのない人間
でした。
英語圏の国という条件の中で、気軽さを考慮して残ったのが
カナダ、オーストラリア、ニュージーランド
でした。
たまたま父に相談したところ、ニュージーランドに知り合いのレーサーがいるとの事がきっかけで
『キウィ』
に決めることになりました。
結局その方とは、ニュージーランドで一度中華料理を食べただけでした。
あの時食べた
「北京ダック」
がめちゃくちゃ美味しかったことだけ覚えています。
そんな孤独感の中で、私の「キウイ」生活は始まりました。
なんか
今の『宮古島生活』
にとても似た感覚を懐かしく感じています。
ただ、
あの時は更に孤独だった
だろうなと思います。
何せ
「英語100%赤点」
の私が誰も知り合いのいない南半球の島国にいたわけです。
ホームステイ先はワーキングホリデーセンターが見つけてくれた所に行きました。
ご夫婦はお子さんがいない、二輪車ホンダのメカニックと事務仕事をされていました。
アジア人へのホームステイはニュージーランドでは一つのビジネスとしてあったのでしょう。
割り当てられた部屋も綺麗でしたし、食事やシャワーも困った記憶はありません。
ただ、本当に何も話せないし会話できないし、コミュニケーションができないことに途轍もない閉塞感を感じた事を覚えています。
また、とても坂が多くてそして急なので、歩くのが大変でした。幸い、バスが充実していて、バスカードがあればどこまでもいく事ができたのが救いでした。
思えばあの時僕の移動手段としての「バス好き」が始まったのでしょう。
まずは語学学校へ行きました。
一番下の更に下のクラスでした。
クラスメイトは
日本人、中国人、韓国人、タイ、ミャンマー人など
でした。
学校には
インド人の集団
がいました。今思えば、何故英語圏のインド人がいたのか?
恐らくニュージーランドの
永住権や大学入試制度
にあったのかもしれません。
そんなこんなで学校にはいったものの、全くコミュニケーションが取れないことへの焦燥感は半端ない状態になります。
英語の教材では日本語が載っていない為、全くわからないのです。
日本にいる母に頼み、部屋にあった中学高校の教科書参考書を全て送ってもらいました。
リスニングのCDを流しながら
アウトプットが大切だと日記を書きました。
必死に英語漬けの毎日を送り2ヶ月ほど。
ようやく英文科や一流大学から留学進学する人たちと同じクラス「Advance」へと加わることになります。
その頃から「人間関係」に変容が生まれていきました。
私は27歳から「Occupational Therapist」としての一面を獲得していく事になり、「2〜3ヶ月の生活習慣」というものが人体の細胞レベル、環境適合的な意義を科学統計的に知っていくことになりますが、
この当時は知る由もなく、ただ無我夢中で行うことの大切さを知ったことは事実です。
その後、ニュージーランド一周を他の国の人々と行うことになります。
オークランド、ロトルア、ウェリントンなどの北島
そしてクライストチャーチ、カイコウラ、ダニーデンなどの南島。
どちらが好きだったかといえば甲乙つけ難いほど素敵でしたが、
それでも思い出深いのは圧倒的に
「南島」です。
「ネルソン」
という街に3ヶ月滞在しましたが、
「ミルフォードサウンド」「氷河」「レイクテカポとワナカ」「クイーンズタウン」
などなど
思い出してみると、とにかく語り尽くせない、ただただ大自然が主体である一体感の中にいました。
そして、
移住や進学、様々な事を意識しつつも、1年後日本へ帰国する事になります。
そこから、
「富士山の水」「バリ島のヴィラ」そして「世界屈指のアセットマネジメント機関」
などに繋がっていくわけですが、アナザーストーリーです。
一つ振り返って感じるのはその当時
「Facebook」「Twitter」「Line」のようなものも、「スマートフォン」もなかった
ので、携帯のショートメールあるいは、
「Hotmail」
の様なフリーメールをPCのインターネットを介して使うのが主流。
ガラケーであり、カメラ機能などはなくて、フィルムカメラ
を持っていました。
あの頃出会った人やあった出来事の因果は私に多大な影響を与えていますが、私の出会った人々が今どこで何をしているのか?
旅は続いていきます。(Journey is still Keep going)
こうして地球上のどこからでも繋がれる時代を生きる。
これからどこからでも繋がっていくことができる。
未来から続いている明日に向かって・・・
See you next time!!!