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渋谷金王八幡宮例大祭マイムパフォーマンスWSレポート【番外編】

こちらは渋谷金王八幡宮例大祭で行ったマイムパフォーマンス「ショーウィンドウ」のWSレポートの番外編になります。
実際の稽古とはちょっと違う場所での経験を残しておきたく記事にしますが
作品作りに直接的には関連しない話になります。
また、トラウマについての記載があります。

本編の劇作についてはこちら。


フリーダンス!?

まぁささんから本番2週間前くらいにWSのグループラインに「エンディングで即興で踊りたい!」という連絡が来たときは
正直に言うと「えー!嫌だ!」と思ってしまった(笑)
大勢の人の前で、振付もなくその場でいきなり踊るというのは素人にはなかなかハードルが高い。
その段階でまだ作品自体が完成していないことに不安や焦りもあって、なかなか気持ちが追い付かず
すぐに「よし!楽しそう!やろう!」と前向きにはなれなかった。

けれども、エンディングの曲は
このWSを通して知って大好きになったOrbeというユニットの「Waltz of BEAU PAYSAGE」という曲だった。


この明るくもあり、切なくもある、イノセントな感じ…良き…。。。
と思って、まぁ取り合えず決まったからにはやるしかねぇと
自宅で試しに動いてみることにした。


踊ってみて現れた身体の変化

自宅の誰も居ない部屋で、曲を流してとりあえず踊ってみる。
まぁささんのLINEには「神様に芸事ができることへの感謝と来年以降も健康で活動できるようにという願いを込めた舞」と書いてあったけど、
その時は完全に見落としていて(どうやってこの長文を見落としたのか謎すぎますが…笑)
とりあえずテーマも何も全部フリーダムなんだと思い込んでいた。
だから自然とその段階で既に作劇の方で上手く作品として昇華できていなかった
自分のトラウマになっている記憶をなぞりながら身体を動かした。

そしたら、動く。身体がめっちゃ動く。
身体だけじゃなくて心もめっちゃ動く。
なんというか、身体を動かしているうちにお湯がふつふつ沸いてきてグラグラ沸騰していくような感じで
感情が物凄い勢いで湧き上がってきて
文字通り突き動かされるような感覚の中で夢中になって踊り続け、
終わって気づけば大号泣していた。

言語化する前の”何か”をそのまま表現する

トラウマになっている出来事を人に説明するとき、私は言葉が詰まってしまう。
端的にそれを表す言葉はあるのだが、
それを目にするのも音で聞くのも反射的に体が拒絶して目を逸らしたり耳を塞いでしまう。
長年向き合ってきて大分マシにはなったけれども、
それでも本やドラマでふいにその単語や描写を目にすると、
実際に身体に痛みを感じたり、動悸や吐き気を催して具合が悪くなってしまう。
そんな状態なので自分で口にするというのは恐怖でしかないし、
身体の反応として喉が痞えて声が出なくなるのだ。

でも、踊るなら言葉にしなくていい。
音で聞くこともない。目で見ることもない。
ただただ自分の内面と向き合って、痛みを感じたならそのまま、恐怖を感じたならそのまま、それを表現すればよかった。
正解もない。伝えなければいけない相手すらいない。
ただ、表に現すだけ。
これは私にとって物凄い発見だった。

「トラウマは言語野が機能低下するため、イメージできても上手く言語化されないことがわかっています。
そのために、劇的な体験を抱えた自分と、理解しない周囲との間にさらなる断絶が生まれるのです。」

公認心理士 みきいちたろう
行動力はあるが”自分”がない…「ログイン前のスマホのような人生」を送る人が幼少期に味わったトラウマ体験 より

大学に通っていた時、
カウンセリングを受けたことがあったが、
自分の抱えてるものを思うように言語化できず
やはりカウンセリングの場でも言葉に出来ないので根本の解決にはならなかったことがあった。
(それでもカウンセラーさんには沢山寄り添って貰ったので物凄く感謝している)

家族にも、実はここまで苦しんでいたと伝わったのはつい最近になってからで
「そんなに苦しんでいたなんて知らなかった」と言われた。
幼い頃からフラッシュバックを繰り返して、すっかり頭の中では鮮明に映像が再生されるようになっているのに
その辛さを人に伝えられない、伝えようとしても理解して貰えず
親からも医者からも大したことではないと言われて
だから我慢するしかないんだと飲み込んだことも大きく傷ついた経験だった。

だから、言葉にしなくてもいい
言語という型に嵌め込む前のドロドロと得体の知れない状態のままさらけ出して
そうして出たものに対して誰からも良い悪いを判断されないという状況に
物凄く癒されたし、感情が浄化されていくような思いだった。


誰にも見せない「自分の為だけ」の舞台

この感覚にすっかり魅了されて、その後も気が済むまで何度も一人で踊った。
踊ったあとは気持ちも身体も軽くなった。
トラウマを想起させるものに触れると
いまだに拒絶反応は起こすけど、それでも今までよりも少しだけ動揺が小さくて済むことが増えた。
(ちなみに、この稽古期間中に普通に見ていたドラマで2本もその描写があったり、人から勧められた漫画やネットでそうした言葉にブチ当たることもやたらとあった…
逆に意識しちゃってるから引き寄せるというか拾うんだろうけど…しんどい…)

まぁささんの言っていた「神様に奉納する」「成仏させる」というのはこんな感じなんだろうと漠然と思った。
「今世のこの肉体で、エゴはこんな体験をしましたよー」と、言葉ではない方法でレポートを提出する。
神様だから、言葉じゃなくても受け取って貰えてる(知らんけど)と思いながら踊ると
今まで「誰にも苦しみを分かって貰えなかった!」と泣きわめいてた自分の一部も静まっていくような感覚があった。

前々からうっすらと気づいてはいたのだが、私は自分の深い感情を何らかの作品として人様に見せることに抵抗がある。
「私は!こんなに!傷ついてるの!見て!!!」というのが悲劇のヒロインぶってるというか自己憐憫に耽っているようでみっともないと思っていたし、
そもそもトラウマとなった出来事がそういった性質から発したのものだったから余計に抵抗を生んでいた。
(だからこの記事を書いてること自体も、ほんと物凄い恥部を晒していてもうほんとに…しんどい…恥ずかしい…)

でも、それと同時に芸術や表現活動というのはそうした深い感情体験からこそ生まれるものだよなとも思うし、
そうした作品が人の心を動かすということも感じている。
だから、あれこれと理屈を捏ねまわさず自分の感情に集中し抵抗なくそれを素直に表現できる人たちが羨ましく、妬ましい気持ちすらあった。
舞台をやる時、この両価性にいつも悩まされ、自己嫌悪を感じ
「人が面白いと思うものを作らなければ意味がない」
「自己満足の舞台にお金や時間を使わせて人を付き合わせるのが気持ち悪い、申し訳ない」と、こんな歪んだ価値観を握りしめていたことに気付いた。
つくづくめんどくさい奴だなと自分でも思う。

でも今回の体験で、初めて「自分の為に表現活動をしていい」という一応の許しを自分に与えられた感覚があった。
恐らく、誰にも見せないという環境で思い切り自己表現出来たことと
それを自分で認められたことが大きかったのだと思う。
(言葉を使わないジャーナリングみたいな感じ。)

堂々と人様に見せるにはまだ抵抗があるが(といってもこの記事は公開されてしまうぅうう…)、
それでも自然と演劇や表現活動との向き合い方は変わっていくんじゃないかなと感じている。
(もしかしたら、満足して表現する必要性そのものすら手放してしまうかもしれない。それくらいの気持ちの軽さがあった。)

本来自己表現であるはずの演劇活動で、自分を表現することを頑なに禁じていたんだから、
アクセル踏みながらブレーキ踏んでるようなもんで
そりゃあ疲れるし楽しめないよなぁと、腑に落ちた。

30年近く染みついた価値観なので、おいそれと消えて無くなってくれるかは分からない。
でもきっとまた自己嫌悪して悶絶した時は、このレポートに立ち返ろうと思う。
そういった意味では、この記事も自分のための自己表現だし、
そのことを穏やかに赦せている自分が居ることも、今回の気付きで得たものだと思う。

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