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開かれた芸術のために

音楽は誰のもの?

「もちぬし」はマエストロだろうか?奏者だろうか?いやコンサートマスター?はたまたパトロン?野太い声で「チケットを買っているんだからお客さんに決まってるだろう」という声も聞こえてきます。侃々諤々。面白い。

こんなにもこの手のひらに収まっていそうな「音楽」というものが、いかに曖昧で、不明確で、所有も定まっていないと知ると、改めて寒気すら感じます。実は自分は’’無’’に向かってありったけの命と財産をぶつけていたのか、と。

実は、この種の議論は音楽史上にたびたび登場します。

バレエ音楽『春の祭典』や『火の鳥』で今なおクラシックファンを惹きつけて離さないストラヴィンスキーですら、この議論に示唆を与えています。

「劇場のムード自体、設計も装置も暗鬱で、それは火葬場、それも非常に旧式なそれであった。そして死者をたたえて歌う仕事を引き受けた喪服の紳士連があらわれてきそうな雰囲気だった。」
「私はへり下ってじっと坐っていたが、15分ばかりでたえがたくなった。手足がしびれたので姿勢を変えねばならなかった。めりめりと音がした。しまった。私の椅子が音をたて、たくさんの眼が私をにらんだ。」
「とうとう休けいになり、2個のソーセージと1杯のビールで私の労苦がむくわれることになった。ところが煙草に火をつけるやいなや、またもや瞑想を命ずるトランペットがなりわたった。(中略)私はようやっと第2幕をたえしのんだ。またもやソーセージとビール、ふたたびトランペットの吹奏、さらに一幕、そして待望の終わり!」――『ストラヴィンスキー自伝』より

これらの苦々しい一連の感想(文句?)は、ストラヴィンスキーの自伝に綴られたバイロイト音楽祭への痛烈な批判でした。

ワーグナーによって創始されたバイロイト音楽祭は、ワーグナーにとって自らの作品を展示する「博物館」であり、その価値を高める「神殿」であり、観客との儀式を通して音楽を宗教の領域に高める「教会」として機能しました。だからこそバイロイトの静粛を乱したストラヴィンスキーはミサの場を乱した異教徒のように扱われ、楽劇をとりまく格式によって装飾された「神殿」とその住人は彼を拒絶したのです。

「宗教の儀礼に対して信者が批判的態度をとるなどということはとうてい想像できない。それは言葉の上での矛盾となろう。信者が信者たることをやめることになるのだから。」
「聴衆の態度というものはまさに正反対である。信仰にも、盲目的な服従にも左右されない。演奏に対して賞賛するか拒絶するかである。」

こうしてストラヴィンスキーはバイロイトで目撃した民衆から、音楽に聴き入る「信者」としての一面と、(わざわざ金を払ってまで)ワーグナーを評価する「消費者」としての一面、その矛盾に満ちた二面性を鋭く指摘しています。

音楽を取り巻く「胡散臭さ」のようなもの、
みなさんも経験はありませんか?

「開かれた芸術」とは?

国立民族学博物館で催された特別展 「ユニバーサル・ミュージアム――さわる!“触”の大博覧会」をご存じでしょうか?

さわって体感できるアート作品が大集合!本展では「歴史にさわる」「風景にさわる」「音にさわる」などのテーマのもと、さまざまな素材と手法を用いて、“触”の可能性を追求します。展示場に足を運び、手を動かす。来館者一人一人の身体から「ユニバーサル・ミュージアム(誰もが楽しめる博物館)」が始まります。(万博記念公園HPより)       https://www.expo70-park.jp/event/48952/

テーマはずばり「ユニバーサル・ミュージアム」。誰にでもアクセス可能なミュージアムとは何か?「視る」「触る」とは何か?人間本来のコミュニケーションとは何か?

博物館という視覚に頼りきった空間で、その視覚をあえて(一時的に)失いながら、健常者は’’見’’常者(=視覚に依拠)として、視覚障碍者は’’触’’常者(=触覚に依拠)として、互いの特性を捨てきらないままに、全く平等な存在として手をとりあい、互いを導き、見えなくとも同じ像を結んでゆく。

支え合う人そのものと、共に暗闇に挑む心意気こそが「究極のユニバーサルデザイン」であることを学びました。

薄暗い博物館のなかで、人類は新たな知見を、まさに''手さぐり''で得たのです。

ドゥダメル×シモンボリバルの『エスタンシア』よりhttps://youtu.be/y36xmzYpujc

「開かれた」音楽とは?

話を戻して、我々のよく知る芸術・音楽はどうでしょうか?

私たちは相変わらず「お客様」と「クラシックファン」の間を絶えず行き来しながら、音と向かいあう。小学校の音楽教室でさえ子供たちは体育館に並び、座り、拍手し、演奏中は息をひそめて刮目する。

言葉がいらない。予備知識がいらない。感じたままに反応しよう。「良いな!」と思ったら拍手をしよう。でも演奏中はお静かに。寝るなよ。

......本当にそうでしょうか?

音楽を語るのは難しい。スノッブじみた感想はさらにクラシックの敷居を上げてしまう。GACKTくらいのバランス感覚がなければ鼻につく。

この身ひとつで感じるからこそ、もっと我々を解放できる鑑賞の在り方があってもいい。お決まりのカーテンコールも、アンコールも、「ブラボー!」も、なんだかどうにも物足りない。

演奏中に踊り出しちゃうような、奏者と観衆と一緒に熱狂するような、ケチャのような、トランスのような。赤ちゃんも泣き放題わめき放題。みんなで肩を組んで、泣いて、笑おう。きっと明日も美しい。そんな演奏会って、ありますか?

静寂だけが正解じゃない。

ここまで全てがブッ飛んだドゥダメル×シモンボリバルの「エスタンシア」を聴きながら、真に「開かれた」芸術、いや世界と一体になることについて、小一時間考えました。

いよいよ冬の入り口です、体に気をつけて。

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