音楽は誰のもの? 「もちぬし」はマエストロだろうか?奏者だろうか?いやコンサートマスター?はたまたパトロン?野太い声で「チケットを買っているんだからお客さんに決まってるだろう」という声も聞こえてきます。侃々諤々。面白い。 こんなにもこの手のひらに収まっていそうな「音楽」というものが、いかに曖昧で、不明確で、所有も定まっていないと知ると、改めて寒気すら感じます。実は自分は’’無’’に向かってありったけの命と財産をぶつけていたのか、と。 実は、この種の議論は音楽史上にたびた
26日、ヤクルトがセントラルリーグを制しました。 やはり優勝の瞬間は格別で、今、僕の目の前の画面では、ナインだけでなくマウンドに集まった全ての大人たちが感情を爆発させています。シーズンにわたってのしかかる重圧と、それを跳ね返すための入念な準備と、敗北と、勝利と、衝突と、情熱と。野球人にとって、これ以上痛快な瞬間はないことでしょう。憎きコロナウイルスによって未だ声援の戻らない横浜スタジアムも、昨日ばかりはスタンドを埋め尽くす「東京音頭」に満ちていたような気がします。 振り返
音楽と出会ってから今日に至るまで、このテーマとは距離があったように感じています。何より目の前の譜面が大切で、目の前の本番が大切で、「終わってから考えよう」の連続だった気がします。恥ずかしながら。 ここまでの人生を振り返れば、僕は楽団に育てられ、泣かされ、救われ、生かされてきました。そんな人間が「終わってから考えよう」の連続で9年も続けているのは、なんだか情けない。虚しい。 実際、惰性だけの飛行機はいつか墜落します。いつか来る破滅に備えるのではなく、揚力を得るために。音楽人
こんにちは。 そろそろ新歓が活発になってくる頃ですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。進学先が決まった方、おめでとうございます。まだの方、あと少しですね。応援しています。 投稿も三回目というのに自己紹介がまだでしたが、私は修士一年の学生です。早稲田大学フィルハーモニー管弦楽団(通称:早稲フィル)を卒団しましたが、コロナ禍での活動が大変であったり現役生が少ないのもあって、今はサポート役のようなかたちでトロチューパートに関わらせてもらっています。noteは基本的に春から二年生
僕の字は、母の字にそっくりだ。 学級懇談会のプリントや、小学校の「れんらくちょう」からは、驚くほどそっくりな筆跡が顔を出す。スピードを感じる「ハネ」、紙をぐっと窪ませるほどの「トメ」。横に広めな「いとへん」。横棒の曲がった「くさかんむり」。やや重心の低い「れんが」。挙げはじめればキリがない。 「息子がお世話になっております。今朝は熱も下がり...」 「PTA総会に出席させていただきます。」 「捻挫で体育の授業を休ませていただきます。」 「先日は引率、ご苦労様でござい
その日、コンサートホールは静かな熱気に包まれていた。 6月の定期演奏会を始め、毎年恒例の合宿も、室内演奏会も、おさらい会も、早稲田祭も、みんななくなった。「なんでこんなことに」と誰もが思った。その無念は簡単に晴れるものではなかった。苦しんだ。叫ぼうにも叫ぶ場所がなかった。途中で離脱した仲間もいた。引き止める声は届かなかった。家族からの冷たい目線に心を痛めた。オーケストラなんてやってる場合じゃない。悩みながら、一人で帰る。そんな日々に押しつぶされそうになりながら、それでも、そ