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個人と分人(自分は相手によって変わるもの)

こんばんは、デイリージラフです🦒

中学生の頃から、不思議に思っていたことがあります。

それは、朝の気分と夜の気分が全く違くなる(ことがある)こと。

朝、青空を観て、今日はなんて素晴らしい日なんだろうって
人生は最高だなんて思って、学校に行ってみると、
嫌なことやめんどくさいことがあったりして、家に帰っても
家族と口論したりしてげんなりして、1日の終わりは、
なんとなくブルーになったりしたこともありました。

そんなことがあるたびに、朝起きた自分と、夜起きた自分って
同じなのだろうかと疑ってみたくなることさえありました。

そのズバリの答えではないのですが、『私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)』を読んでみて、なるほどと思ったことがありました。

人間の身体は、なるほど、分けられない individual。しかし、人間そのものは、複数の分人に分けられる dividual。 あなたはその集合体で、相手によって、様々な分人を生きている。アイデンティティやコミュニケーションで思い悩んでいる人は、一度そうして、状況を整理してみよう。

『私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)』平野啓一郎

平野さんは、この本の中で、身体は「唯一無二の個人』であり、人間の人格は「相手によって変わる分人」と定義している。

人間関係を考えた時に、この考え方は、とてもしっくりきて、
確かに上司に話している自分とお母さんと話している自分と、
彼女と話している自分は、話している内容も振る舞いも違ったりします。

もちろん共通する部分はあるけれど、
唯一無二の絶対に変わらない個人ではなく、まさに分人だと思ったのです。

引きこもりには、対人関係を遮断することで、「消したい分人」を消滅させる一面がある。実際、後に触れるように、出家は、社会的な分人を抹消して、宗教的分人のみを生きるために必要な手続きだ。  しかし、一旦引きこもってしまうと、新しい他者との出会いがなくなり、今抱えている他者との分人も更新の機会を失ってしまう。そのため、ただ過去の分人しか生きられなくなり、「変わる」ということがますます難しくなる。

『私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)』平野啓一郎

分人という考え方で、人生を考えてみると、
違う人に出会うことや、環境を変えることが、
いかに人生にとって大切なのか考えさせられます。

そして、平野さんが主張するように、過去の人間関係だけに固執すると、その時の分人としてしか生きられなくなってしまうので、その分人としての人格が好きではない場合、人生に息詰まってしまうリスクがあると思う。

人間は、他者なしでは、新しい自分になれない。一人の人間が死ぬことで、未来においては、無数の人間が、自己変革の機会や成長のきっかけを失う。好きな自分になり得たかもしれない分人化の可能性を失う。

『私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)』
平野啓一郎

そう考えると、
人間が生きていて、誰かと出会い、
新しい分人として生きられることは、人生のワクワクできると思うのです。

だから、
転職したり、
結婚したり、
恋人を作ったり、
サークルに入ったりして、
自分が気に入った、心地よい分人として生きられる環境を探すことは、
そのまま幸福に直結するのではないか。そんなことを考えたのです。


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