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太宰治 『井伏鱒二選集』後記

(2023年1月31日更新)



 井伏鱒二の「山椒魚」の感想文や作品解説をググった流れで見つけて読んだ太宰治の「『井伏鱒二選集』後記」は、私にしてはスラスラ読んだ。体調と目の冴え具合が見事にハマってか、話を聞くスピードで読み下せた。from青空文庫。

 第四巻の旅と鱒二の話が興味深かった。降りる・観念すること、金と情熱を浪費しない行為、動かない美学というようなものについて。終わりの方の、フッ軽に動くことへの礼賛と逆に動きのないことへのナンセンス扱いは、社会的に盲目なほど信じられているが~、みたいな一文が印象的。今もだなあと。以下に一部を抜粋する。

 ところで太宰の遺書には鱒二disがあったらしいが、一体何があったんだろう。諸説あるらしい。

 旅行は元来(人間の生活というものも、同じことだと思われるが)手持ち無沙汰なものである。朝から晩まで、温泉旅館のヴェランダの籐椅子に腰掛けて、前方の山の紅葉を眺めてばかり暮すことの出来る人は、阿呆ではなかろうか。
 何かしなければならぬ。
 釣。
 将棋。
 そこに井伏さんの全霊が打ち込まれているのだかどうだか、それは私にもわからないが、しかし、旅の姿として最高のもののように思われる。金銭の浪費がないばかりでなく、情熱の浪費もそこにない。井伏さんの文学が十年一日の如く、その健在を保持して居る秘密の鍵も、その辺にあるらしく思われる。
 旅行の上手な人は、生活に於ても絶対に敗れることは無い。謂わば、花札の「降りかた」を知って居るのである。
 旅行に於て、旅行下手の人の最も閉口するのは、目的地へ着くまでの乗物に於ける時間であろう。すなわちそれは、数時間、人生から「降りて」居るのである。それに耐え切れず、車中でウイスキーを呑み、それでもこらえ切れず途中下車して、自身の力で動き廻ろうともがくのである。
 けれども、所謂「旅行上手」の人は、その乗車時間を、楽しむ、とまでは言えないかも知れないが、少なくとも、観念出来る。
 この観念出来るということは、恐ろしいという言葉をつかってもいいくらいの、たいした能力である。人はこの能力に戦慄することに於て、はなはだ鈍である。
 動きのあること。それは世のジャーナリストたちに屡々好評を以て迎えられ、動きのないこと、その努力、それについては不感症では無かろうかと思われる程、盲目である。
 重ねて言う。井伏さんは旅の名人である。目立たない旅をする。旅の服装も、お粗末である。
 いつか、井伏さんが釣竿をかついで、南伊豆の或る旅館に行き、そこの女将から、
「お部屋は一つしか空いて居りませんが、それは、きょう、東京から井伏先生という方がおいでになるから、よろしく頼むと或る人からお電話でしたからすみませんけど。」
 と断わられたことがある。その南伊豆の温泉に達するには、東京から五時間ちかくかかるようだったが、井伏さんは女将にそう言われて、ただ、
「はあ。」
 とおっしゃっただけで、またも釣竿をかつぎ、そのまま真直に東京の荻窪のお宅に帰られたことがある。
 なかなか出来ないことである。いや、私などには、一生、どんなに所謂「修行」をしても出来っこない。
 不敗。井伏さんのそのような態度にこそ、不敗の因子が宿っているのではあるまいか。

太宰治 『井伏鱒二選集』後記 - 青空文庫より


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