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『両手にトカレフ』持ってあの子が撃ちたかったものは何だろう

『両手にトカレフ』- 著者:ブレイディみかこさん

についてのお話です。

まずブレイディみかこさんと言えば、以前にもチラッと言及したことがあるこのシリーズがいちばん有名でしょう。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』1, 2

私が読んだことがあるのもこの2冊。これらは一見小説かと思いきや、思いっきりノンフィクションのエッセイ。息子さんのこと、イギリス郊外の街や隣人とのやり取りや学校教育のことなどがかなり赤裸々に書いてあって、プライバシーは大丈夫かな?とお節介な心配をちょっぴりしつつも、それぞれのリアリティに、日本と全く異なる教育事情に対する考察に、共感したり疑問を持ったり新鮮な驚きを感じたりしながらグイグイ読み進めたものです。
最近は1作目は文庫になったり、夏休みの課題図書にもなってるんですね。すごくピッタリだと思う。

ブレイディみかこさん初めての小説

『ぼくイエ』(と略すらしい)以外の著作も、基本的にノンフィクションとのこと。では今回なぜ小説を書くことにされたのかは、このインタビュー記事に理由が書いてありました。『トカレフ』のネタバレを多少含むので、先に本作を読みたい方はこのリンクは後回しが良いかもです。

以前の著作では、子どもの人権や対話を重視するような学校教育と生活(基本的に羨ましい)が描かれていました。でも、確かに言われてみれば、教員も学校も家庭も周囲の大人も信頼できず、貧困や複雑な家庭環境にもがいている子どもたちがあんまり「見えない」描かれ方になっていました。そんな子どもたちにスポットを当てようとしたのが本書です。

でも、それをもしノンフィクションでやってしまうと、いくらイギリスから遠く離れた国で出版される外国語の本とはいえ、このグローバルな世の中ではプライバシーの問題もあるだろうし、ギリギリの生活で心を閉ざしている子どもにインタビュー、なんていうのも迂闊にできることではないでしょう。

ただ、もちろん現実にそういう子どもたちは少なからず存在するわけです。イギリスにも。日本にも。それからたぶん、古今東西、世界の大抵の国々にも。だからきっと、ノンフィクションとはいえイギリスの実在の子どもたちから、登場人物や出来事の要素を拾い集めて形にしたんだろうな、と推測していました。インタビューによると、ブレイディさんご自身の経験も大いに加味された、一部自伝的な要素もあるそうですね。

実在の日本女性の自伝とリンクしながら進むストーリー

主人公のミアがひょんなことから手にすることになったのは、とある日本人女性の自伝でした。明治から大正にかけてまさに波瀾万丈、激動の人生を送った、金子文子さんという女性の手記。これ、検索してみたら実際に英訳されている実在の本でした。

何度も「青い表紙の本」という表現が出てくるので、ミアが持ち歩いていた本はまさにこの装丁なのでしょう。『両手にトカレフ』が爽やかな水色(青色系)ベースのカバーなのも、ここにリンクすることが狙いなのかも、と思いました。「青い表紙の本」を読むミアのことが書いてある「青い(水色の)表紙」を読む、ミアやフミコに共感する立場の誰かが、彼女たちの心情を追体験するかのように、気持ちを分かち合える貴重な存在として、より近くに感じられるように。

(ところで私はこの金子文子さんのことは全く知らなかったのだけど、作中では自伝が途中までしか書いていなかったので、その後どうなったのかすごく気になりました。自伝を読んでみようかなともふと思ったのですが、待ちきれずググってしまって、えええぇ…絶句…となりました。いやはや、壮絶…)

「救い」はどこから与えられるべきなのか

というわけで、ブレイディみかこさんの本を読むのは3冊目、実質2種類目、だったのですが。どれもこれも、読んだ後は色んな事象や感情についてうーんと考えさせられます。筆致は淡々とシンプル、でも人物の微細な変化や感情の機微にフォーカスする。
そしてどの本でも共通すると私が感じたのは、自分には「本当の理解」はしきれないであろう物事も人物も、しきれないとはわかっていても、できる限り理解しようと歩み寄る姿勢を貫く"empathy"を最重要事項に位置付けて生きていくことの大切さでした。

他人の靴って履いてみればすぐわかるけれど、足のフィット感とか踵の削れる位置とか(何なら湿気とか臭いとかも…笑)、自分の靴とは全然違って何だか落ち着かない。それでも、empathyすなわち例えれば「他人の靴を履いてみる」、ということ。クラスメートとのいざこざから、国同士の争いごとまで、解決のためには双方にこのマインドセットがあることがいかに重要か、と改めて実感させられるエピソードが多彩です。

でも、今回出てきたミアや弟のチャーリーのように、その日その日をギリギリで暮らしている人たちにとって、「他人の靴を履いてみる」のを求めるのは酷な上に、お門違いも甚だしいでしょう。わざわざ履き心地の合わないかもしれない「他人の靴を履いてみる・・・・・」ことができるのは、精神的にも身体的にもそれなりの余裕があってこそできることなんじゃないでしょうか。

つまり、ギリギリの人にとっての「救い」は、その人自身の中に求めるのではなく、どこかのレベルでは外部からアプローチするしかない。ましてや、ギリギリの子どもたちにとっては、通常周りの大人が、その子たちにとって適切に関わるしかない。

大人に余裕がない世の中では、そんな子どもたちを大人が「救う」ことは一体どれだけできているんだろうか。それに、ギリギリのまま大きくなった大人を、「救う」他人はどれだけいるんだろうか。(「救い」といっても、信仰とか宗教みたいな概念的・構造的な制度とはまた違う意味でね。)

元気な時なら「他人の靴を履いてみよう」と思えるような育ち方をした自分だけれど、目の前の他人にとって、一体何ができているだろう。(何かをしてやろう、みたいな傲慢な視座ではなく。)
でも、元気じゃない時にはそう思う余裕がないこともある。もっと正直に言うと、元気でも絶対履いてみたくない他人の靴も、ある。だとすると、私のempathyはキレイゴトの偽物なんだろうか。
結局、正解はどこにあるんだろう。

そんなことをつらつらと考えてみるぐらいに思考を刺激される、限りなくノンフィクションに近い、ブレイディさんらしいなと思える小説でした。

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