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虚構あるいは芸術について①古代ギリシャ
(数年前に書いていたメモ)
fictionとは作られたものという意味である。作られたものというのは、つまり、誰かが作らなければ存在しなかったもの、ある特定の人間の介入がなければこの世に存在しなかったものを意味する。作られたもの、の原因となるのは人間である。世界は神によって作られたもの、と言うことはできるが、そのさい世界をfictionとは言わない。fictionとは、人間によって作られたもの、ととりあえず定義できるだろう。しかし、人間によって作られたものでも、例えば道具や建造物をfictionとは言わない。そこには実用性の有無がおそらく関わってくると思われる。
最も古いフィクションは、世界各地に散らばる神話である。神話は決して目の前にある自然ではない。つまり人間の作りものであり、fictionなのである。この神話の果たしていた機能は、プラトンが『イーリアス』に言及する箇所で明らかになるように、社会道徳の形成であった。ギリシャ社会の道徳とは、ソクラテスによる論難を受ける前までは、ホメロスの『イーリアス』と、ヘシオドスの『神統記』によって形作られていたのである。したがってfictionのもっとも古い形態である神話は、すなわち社会規範としての性格を有していたと言える。 しかし『イーリアス』を少しでも読んだことがある人間ならわかるように、そこに私たちが普通思い描くような法規範は存在しない。「人を殺してはならない」「姦淫するなかれ」といった事柄が明示されることは断じてない。『イーリアス』の主題は戦争であり、また——ここがとりわけ重要なことだが——その戦争の成り行きの一種の「合理化」である。トロイア戦争がいかにして起こり、どのように進展し、どのように終結に向かっていくのか(終結の様子は語られていないが)が、語られているのである。しかしそれは決して、現代的な意味で史実を語っているわけではない。戦いの転換点となる部分では必ず神々が登場し、神々の嫉妬や気まぐれといった些事によって人間世界の事柄が定められていくのである。その意味で『イーリアス』は、現実に起きた戦争の、神的な「合理化」といえる。もっと言えば「神」を用いた「説明」といえる。そしてこの歴史の合理化こそが、アリストテレスの述べる「詩作」なのである。
ギリシャ民族がこの叙事詩を自らの法として受け入れたのには、この合理性が深く関わっているだろう。ある物事について、その原因を探っていく能力をプラトンは知と呼んだ訳だが、まさに『イーリアス』には知を可能とする態度が潜んでいたのである。
神話の構造が社会の構造を作るのは当然である。なぜなら神話とは自然の「合理的」解釈であり、その自然には当然人間が含まれるからである。自然の合理化のうちに、人間社会の合理化も含まれるのである。
ここにおいてfictionは社会をも意味することになる。いやもっと正確に述べるなら、神話というfictionが、社会というfictionを形づくるのである。そして言うまでもなく、このことは現代にも当てはまる。われわれの時代における神話とは科学であり、社会とは資本主義である。
そもそも私がこうしたfictionについての考察を進めたのは芸術について考えるためだった。芸術とは人間が作ったもとであるから(もちろんこの前提は今日見直されているが)、まさにfictionである。
ギリシャにおける芸術は、もっぱら二つの社会的機能を果たしていた。一つは祖先崇拝のために墓を飾るということ。もう一つはオリンピックの勝者を讃えること、である。
ギリシャのある壺絵には「Sophilos painted me」という署名が記されている。Sphilosとは絵を描いた人物であるから、このmeは壺に書かれた絵のことを指している。時代を下るにつれ、このmeは省略されるのだが、しかしこのmeには文法的な意味以上の、つまり、芸術の虚構性を示しているという意味があるように、私には思われる。解釈にはいくつかの方法があるだろう。例えば人間の自負心が神の領域まで高まり、自らの創造力を神の創造力に擬えて、意識をもったものを生み出せるまでに至ったのだと。つまり被造物である私たちが自己意識をもっているように、私たちが生み出す絵にも自己意識が宿るのだ、と。しかしギリシャの民族が神々を篤く崇拝していたことは疑いようがなく、芸術がどんなに高度なものであったとしても、ルネサンスのような意味での人間中心主義は存在しなかった。むしろ次のように考えるのが自然だろう。meという言葉は、それが「ありえない」ということを見るものに瞬時に想起させることによって、その絵がfictionであるということ、つまり人間の作り出したものに過ぎないということを示す印であったのである。言い換えれば、meは、神ではない絵描きの謙遜が反転したかたちで現れているのである。従ってこの時代においては、fictionは神の作ったものではない、あくまでも虚構であるということが意識されていたのである。プラトンのいわゆる詩人追放論はこの意識の極端な形である。(あるいは人間の傲慢(ヒュブリス)が高まりすぎたために、この虚構という意識がプラトンの中で活性化された)
芸術作品が虚構であるという意識は「神の作った真実の世界」という考えが衰退していくときに、同時に薄れていくものである。それがまず顕著に現れたのがルネサンスであった。芸術は虚構であることを辞め、真実に近づこうとしたのである。それは自然そのものの真実性に疑念が生じたからである。つまり自然が虚構へと反転しようとするときに、芸術は真実へと反転しようとする。(次回へ(書くとはいってない))