個人的、現実的、純粋経験的

 解説書やらを一通り読み終えて『善の研究』の原典にあたっている。最近はnoteで毎日日記をつけるようにしているがいよいよネタもなくなってきたので今回は単純に読書感想文を書きたい。ひとまず純粋経験パートについて。

 同一哲学という言葉がある。精神と自然、主観と客観に区別を設けないとする考えの枠組みで、シェリングが打ち立てたものだ。A=Aという命題によって示される同一性は、「見る私」と「見られる対象」から構成される対立図式を前もって想起させることはない。この点について西田はおそらくドイツ観念論から多分な影響を受けている。

 純粋経験自体はたぶん相当有名な概念で高校倫理の教科書にも載っていたんじゃないかと思う。私たちはしばしばある対象を「AはBである」という命題で言い表すが、純粋経験とはそういった命題、言い換えれば主体による判断が加わる以前の状態を指す。リンゴが「赤い」とか「おいしそう」とかいった述語的な感覚もなく、未だ主もなく客もないありのままの経験である。

 これだけだと正直全然面白くないのだが、この本が難解なのにも関わらず飛ぶように売れたのは西田の主張が一見矛盾にまみれているところが理由の一つにあると思う。「純粋経験」の定義が本人の手によって如何様にも拡張されていく感覚である。

 一般的な理解の話をすると、純粋経験が純粋たる所以は対象の分析不可能性だとか、経験が瞬間的かとかそういうところにあると思われてると思う。だけどそれは西田によって早々に否定され、なんだかよく分からないままに「統一」というこれまたよく分からない観念が登場する。

元来、経験に内外の別あるのではない、これをして純粋ならしむるものはその統一にあって、種類にあるのではない。表象であっても、感覚と厳密に結合している時にはただちに一つの経験である。

 たぶん彼がこのパートで全体を通して言いたかったことは「主客合一」が経験の本質であるということ。私たちがなにか一つの目的を表象(イメージ)し志すとき、その働きは必ずしも瞬間的である必要はない。西田は知情意の中で意志を最重要視する主意説を採っているが、意志の目的という名の意識が統一(自己の実現が達成)されるとき、そこに理想と事実の乖離(ふと別の対象に心を阻まれたり)があったかが一番の問題なのだ。自己を棄てて思惟の対象と同一化する、あたかも素晴らしい映画に耽って自己を忘れる感覚である。そこには主観と客観による対立など存在しない。

 ヘーゲルは『エンチクロペディー』において絶対的に具体的なものを精神であるとした。瞬間的な知覚と持続的な思惟というのは一見異類のもののように思えるが、後者はヘーゲルによれば主体そのものですらあるのだ。

 そして私の興味を惹いたのは「真理」についての話であった。真理とは数学の公式のようなもので皆それを客観的と信じて疑わない。しかし純粋経験の立脚地によれば主観を離れた客観などないのである。多角形の内角の和の公理にしてもなんにしても、西田によれば真理とは数々の経験から成るものなのである。真理を”know”するということは自己の経験に基づいた理想を実現することに他ならない。

 ここで一体いかなるものが「真理」なのかという問いが生まれてくるがこれはとても簡単で、それは経験的であるがゆえに抽象性を全くと言っていいほど帯びていないのである。どこまでも個人的で現実的で、そのために具体的であらざるを得ず、これによって完全とされる真理は「語りえぬもの」となるのだ。

 真理を完全に客観的なものでないとする哲学にはなんだか非常に励まされる。ショーペンハウアーは「盲目的な生への意志」という言葉である種の積極的ニヒリズムを打ち立てたが、さらに西田は意志というものの根拠に主客合一の直覚、すなわち誰にとっても代えられない「経験」を置いてくれた。

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