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ある《日常》の喪失 【スケッチエッセイ】
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僕の暮らす団地に、毎週火曜日の朝になると軽トラに食料品を積んでやって来る行商(移動販売)のオヤジさんがいた。
最初の頃は、身元の知れない行商人から食料を買うなんて…と敬遠していたが、彼が運んでくる肉、魚、野菜の質と鮮度の良さが評判になるにつれて、いつしか我が家にとっても欠かせぬ存在となった。
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コロナ禍が始まった頃からだから、もう5年のつき合いである。
コロナのせいでスーパーに足を運ぶのも躊躇われるようなご時世だったし、坂道の多い団地で外出に不自由を覚える老人たちにとっても有り難い存在だったはずだ。
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毎週火曜日の午前9時になると、何処からか「と〜ふ〜」という呑気そうな声が軽トラのスピーカーから流れてくる。
「豆腐屋でもないのに、なんでと〜ふ〜なんだろうね」と笑いながら、ツレアイは買い物籠を持っていそいそと表に出てオヤジさんを呼び止める。
そして、世間話をしながらあれこれと食料品を物色して買い求めるのが、いつしか《火曜日午前9時の日常の風景》となった。
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いつも大きな声でよく喋り、よく笑う元気なオヤジさんだった。
商売人に年齢を尋ねることはないが、60を少し過ぎたあたりだろうと勝手に推測した。
生鮮食品に関しては、そこら辺のスーパーよりも良質なものをリーズナブルな値段で売っているので、年間で我が家が消費する肉と魚の8割は彼から買い求めていた。
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僕もたまに軽トラの中の品物を覗くこともあったが、たいていは庭のテラスに座ってコーヒーを飲みながら、ツレアイとオヤジさんのやりとりを眺めていることの方が多かった。
それでも、少し多めの買い物をした時には、「これ、旦那さんの酒のつまみにどうぞ」と言って、実に美味そうな酒の肴をサービスしてくれるので僕もけっこう重宝していた。
なかなかの商売上手なのだ。
先週も買い物を終えた後は、テラスにいる僕の方に向かって「旦那さん、毎度おおきに。また来週もよろしゅうに!」と大きな声で挨拶をして立ち去って行った。
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今週の火曜日
9時になっても「と〜ふ〜」の声が聞こえてこない。
9時半を過ぎ、10時を回っても姿が見えないので、今日は風邪でも引いて休んだのだろう、と諦めた。
そういう日だってあるさ・・・
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夜になって、同じ買い物仲間である団地の奥さんから連絡が入った。
「オヤジさん、死んだんだって…」
人はある日、突然、逝くのだ…
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来週の火曜日、朝9時がやって来ても、もう、あの呑気そうな「と〜ふ〜」の呼び声を聴くことはない。
今夜の夕食は、オヤジさんから最後に買い求めた豚肉でロースカツを作った。
カツをひと口かじると、どこからともなく「と〜ふ〜」の声が聞こえたような気がして、ふと窓の外に目をやった。
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『今日まで そして明日から』
作詞・作曲・歌 吉田拓郎